Ⅹ-30Ⅹ|深海の蔵書

脳を鍛えるには運動しかない:BDNFが解き明かす精神医学革命

― アンデシュ・ハンセン『運動脳』を読む ―

読了 約12分
運動脳 表紙
取り上げた書籍『運動脳』アンデシュ・ハンセン

スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンが、最新の脳科学研究をもとに「運動が脳に与える劇的な効果」を解き明かした世界的ベストセラー。うつ・不安・ADHD・認知症・老化——現代医療が苦闘するすべての脳の問題に対し、運動は最も強力で副作用のない「薬」である。BDNFという脳由来神経栄養因子の発見が、精神医学のパラダイムを根底から変えつつある。

「運動は健康に良い」——この常識を、スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンは脳科学の最前線から根本的に書き換えた。本書『運動脳』(原題:Hjärnstark、2022年邦訳)は、世界67万部を超えるベストセラーとなり、「運動が脳を変える」という科学的事実を一般読者に届けた。

本書の核心は、BDNF(脳由来神経栄養因子:Brain-Derived Neurotrophic Factor)という分子にある。BDNFは運動によって海馬で大量に産生され、神経細胞の成長・生存・シナプス形成を促進する。ハーバード大学の精神科医ジョン・レイティはこれを「脳の肥料」と呼んだ1。この発見が、うつ・不安・ADHD・認知症に対する治療的アプローチを根底から変えつつある。

アンデシュ・ハンセン(御舩由美子訳). 運動脳. サンマーク出版, 2022. ISBN: 9784763140142.

Ⅰ|BDNFの発見:運動が脳を物理的に変える

1990年代、神経科学の世界に革命が起きた。「成人の脳は変化しない」という長年の定説が覆され、海馬では成人後も新たな神経細胞が生まれること(神経新生)が発見されたのだ。そしてその神経新生を最も強力に促進するのが、有酸素運動であることが明らかになった2

メカニズムの中心にあるのがBDNFだ。有酸素運動を行うと、筋肉から乳酸が産生され、これが肝臓でBHB(β-ヒドロキシ酪酸)に変換される。BHBは血液脳関門を通過し、海馬でのBDNF産生を促進する。BDNFはシナプスの可塑性を高め、記憶・学習・感情調節に直接関与する3

ハンセンが特に強調するのは、この効果の「即時性」だ。一回の有酸素運動(20〜30分)でも、運動直後から海馬のBDNF濃度が上昇し、集中力・記憶力・気分が改善する。これは薬物療法では得られない速度の効果だ。

Ⅱ|うつ・不安への処方箋:運動 vs 抗うつ薬

本書で最も衝撃的な章の一つが、運動と抗うつ薬の比較研究だ。デューク大学のブルメンタール博士らが行った有名なRCT(SMILE試験)では、中等度うつ病患者を「運動療法群」「抗うつ薬群」「運動+抗うつ薬群」に無作為に割り付けた。結果は驚くべきものだった——16週後の改善率は三群間で有意差がなく、運動は抗うつ薬と同等の効果を示したのだ4

さらに注目すべきは再発率だ。10ヶ月後のフォローアップでは、運動療法群の再発率が最も低かった。抗うつ薬群では薬を止めると再発リスクが上昇するが、運動習慣は「やめても」ある程度の効果が持続する。ハンセンはこれを「脳の構造的変化」によるものと説明する。

不安障害に対しても同様の知見が蓄積されている。週3回・30分の有酸素運動を8週間継続すると、不安症状が有意に改善し、その効果はベンゾジアゼピン系薬物に匹敵するという研究もある5

Ⅲ|ADHD・認知症・老化:運動が変える脳の未来

ハンセンは本書で、ADHDへの運動の効果についても詳述する。ADHDの中核症状(不注意・多動・衝動性)は、前頭前野のドーパミン・ノルアドレナリン系の機能不全に起因する。有酸素運動はこれらの神経伝達物質の放出を促進し、ADHDの症状を改善する。複数のRCTが、運動がメチルフェニデート(リタリン)と同等の効果を持つことを示している6

認知症予防においても、運動の効果は最も強力なエビデンスを持つ介入の一つだ。フィンランドで行われたFINGER試験(n=1,260)では、運動を含む多因子介入が認知機能低下を31%抑制することが示された7。海馬の萎縮(アルツハイマー型認知症の初期変化)は、有酸素運動によって逆転し得ることも報告されている。

老化に対しては、「テロメア」の観点から興味深い知見がある。定期的な有酸素運動を行う人は、運動しない人に比べてテロメアが長く、生物学的年齢が約9歳若いというデータがある8

◉ 発展章|慢性疼痛と運動:Dr.Painの視点から

慢性疼痛の治療において、運動療法は最も強いエビデンスを持つ非薬物療法の一つだ。本書が示すBDNFの機序は、慢性疼痛における運動の鎮痛効果を説明する有力な仮説を提供する。BDNFは脊髄後角の疼痛処理にも関与しており、適切な運動によるBDNF産生の最適化が、中枢性感作の緩和につながる可能性がある9

ただし、慢性疼痛患者への運動処方には注意が必要だ。「痛みがあるから動けない」という恐怖回避モデルを克服するためのペーシング(活動量の段階的増加)が重要であり、最初から高強度の有酸素運動を推奨することは逆効果になり得る。ハンセンが推奨する「週3回・20〜30分の中等度有酸素運動」は、慢性疼痛患者にとっても現実的な目標値だ。

「運動脳」「筋肉はすごい」「スタンフォード式疲れない体」——この三部作が示すメッセージは一致している。身体を動かすことは、脳と心と身体を同時に癒す最も根拠ある医療行為である。処方箋に「週3回のウォーキング」を書く日が、そう遠くない未来に来るかもしれない。

結び

『運動脳』は、「運動が脳を変える」という科学的事実を、BDNF・神経新生・シナプス可塑性という分子レベルの機序から解き明かした傑作だ。うつ・不安・ADHD・認知症・老化——現代医療が苦闘するすべての問題に対し、運動は最も強力で副作用のない「薬」であることを、豊富な臨床試験データで示している。

Dr.Painとして最も印象的なのは、ハンセンが「運動は薬の代替ではなく、薬と同等の医療行為である」と主張していることだ。これは精神医学・神経内科・疼痛科を横断する革命的な視点であり、「動くことを処方する医師」という新しい医療者像を提示している。本書・「筋肉はすごい」・「スタンフォード式疲れない体」の三部作を通じて、運動科学が医療の中心に据えられる時代の到来を感じる。

参考文献

  1. 1.Ratey JJ, Hagerman E. Spark: The Revolutionary New Science of Exercise and the Brain. Little, Brown and Company, 2008.
  2. 2.van Praag H, et al. Running increases cell proliferation and neurogenesis in the adult mouse dentate gyrus. Nat Neurosci. 1999;2(3):266-270.
  3. 3.Wrann CD, et al. Exercise induces hippocampal BDNF through a PGC-1alpha/FNDC5 pathway. Cell Metab. 2013;18(5):649-659.
  4. 4.Blumenthal JA, et al. Effects of exercise training on older patients with major depression. Arch Intern Med. 1999;159(19):2349-2356.
  5. 5.Herring MP, et al. The effect of exercise training on anxiety symptoms among patients: a systematic review. Arch Intern Med. 2010;170(4):321-331.
  6. 6.Verret C, et al. A physical activity program improves behavior and cognitive functions in children with ADHD: an exploratory study. J Atten Disord. 2012;16(1):71-80.
  7. 7.Ngandu T, et al. A 2 year multidomain intervention of diet, exercise, cognitive training, and vascular risk monitoring versus control to prevent cognitive decline in at-risk elderly people (FINGER): a randomised controlled trial. Lancet. 2015;385(9984):2255-2263.
  8. 8.Puterman E, et al. The power of exercise: buffering the effect of chronic stress on telomere length. PLoS One. 2010;5(5):e10837.
  9. 9.Nijs J, et al. Exercise therapy for chronic musculoskeletal pain: Innovation by altering pain memories. Man Ther. 2015;20(1):216-220.