Ⅲ-05Ⅲ|代謝

エネルギーの起源に立ち返る

― Nick Lane『ミトコンドリアが進化を決めた』を読む ―

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ミトコンドリアが進化を決めた 表紙
取り上げた書籍『ミトコンドリアが進化を決めた』Nick Lane

ミトコンドリア共生と真核生物の誕生、エネルギーと複雑性の関係、二つの性の起源、ROSと老化、アポトーシス――生命のエネルギー論から代謝の根源を問う。

Ⅲ棚の4冊は、代謝の「制御」を論じてきた。しかし、Laneが問うのはその手前にある。なぜ代謝はこのように設計されているのか。

ミトコンドリアは細胞の「発電所」にとどまらない。生命の複雑性、二つの性の起源、老化、そして死のすべてに関与する、生命進化の中心的存在である。

著:Nick Lane|原題:Power, Sex, Suicide: Mitochondria and the Meaning of Life|邦題:『ミトコンドリアが進化を決めた』|訳:斉藤隆央|出版社:みすず書房|邦訳初版:2007年

Ⅰ|本書の立場:ミトコンドリアは生命の支配者である

本書は、ミトコンドリアを「細胞小器官」としてではなく、「生命の論理を支配する存在」として描く。約20億年前、ある古細菌がα-プロテオバクテリアを取り込んだ共生事象が、真核生物の誕生を可能にした。この事象なくして、多細胞生物も、脳も、意識も存在しなかった1

Laneはこの共生を、生命史における最大の転換点と位置づける。なぜなら、ミトコンドリアの獲得によって、細胞は桁違いのエネルギーを手にしたからである。

Ⅱ|エネルギーと複雑性の関係

なぜ細菌は40億年近くも単純なままなのか。なぜ真核生物だけが複雑な多細胞体制を進化させたのか。Laneの答えは明確である。エネルギーの制約である1

細菌は細胞膜でエネルギーを生産する。細胞が大きくなれば体積は三乗で増えるが、膜面積は二乗でしか増えない。つまり、大きくなるほどエネルギー効率が悪化する。この「エネルギーの壁」が、細菌の複雑化を阻んできた。

ミトコンドリアの獲得は、この壁を突破した。内部に独自の膜系を持つミトコンドリアが数百から数千個も細胞内に存在することで、真核細胞は細菌の数千倍から数万倍のエネルギーを遺伝子あたりに利用できるようになった2。この余剰エネルギーが、遺伝子の増大、タンパク質の多様化、細胞内構造の精緻化を可能にした。複雑性はエネルギーの関数である。

Ⅲ|なぜ二つの性があるのか

Laneは、性の起源もミトコンドリアから説明する。ミトコンドリアは独自のDNA(mtDNA)を持つ。もし精子と卵子の両方がミトコンドリアを次世代に渡せば、異なるmtDNAが一つの細胞内で共存することになる。異なるゲノムを持つミトコンドリアが同一細胞内で競合すれば、協調的なエネルギー生産は破綻する1

この問題を回避するために、片方の親(通常は母親)のみがミトコンドリアを伝える「母系遺伝」が進化した。これが、配偶子の非対称性――大きな卵子と小さな精子――の起源であり、すなわち二つの性の起源である。

性は繁殖のためだけに存在するのではない。ミトコンドリアの品質管理のために存在する。

Ⅳ|ミトコンドリアと老化

本書の後半は、老化と死に向かう。ミトコンドリアは酸素を使ってATPを合成する過程で、不可避的に活性酸素種(ROS)を発生させる。ROSはmtDNAを損傷し、損傷したmtDNAはさらに多くのROSを生む。この悪循環が、ミトコンドリア機能の漸進的な低下を引き起こす1

これが「ミトコンドリア老化仮説」の骨子である。Harmanが1972年に提唱したフリーラジカル説を、ミトコンドリアに焦点化した理論である3

Laneはさらに踏み込む。ミトコンドリアはROSを「単なる副産物」として出しているのではない。ROSはシグナル分子でもあり、細胞の適応応答を調節する。問題は、ROSの量が制御可能な範囲を超えたときに起こる。

Ⅴ|アポトーシス:ミトコンドリアが決める死

ミトコンドリアはエネルギーを与えるだけでなく、細胞の死をも決定する。アポトーシス(プログラム細胞死)の実行において、ミトコンドリアは中心的な役割を果たす。ミトコンドリア外膜が透過性を獲得すると、シトクロムcが細胞質に放出され、カスパーゼカスケードが起動し、細胞は秩序立って解体される1

がん細胞の多くは、このアポトーシス経路を回避している。つまり、がんとは「ミトコンドリアが死を命じる能力を失った状態」とも解釈できる。

エネルギーを供給する者が、その供給を停止する権限も持つ。これは偶然ではなく、共生の論理的帰結である。

◉ 発展章|代謝棚を貫く原理

※ここからは本書を超えた思索である。

Ⅲ棚の5冊を振り返る。Ⅲ-01でLongoは「mTOR抑制と断食が修復モードを起動する」と語った。Ⅲ-02でFungは「インスリン抵抗性が代謝疾患の根幹にある」と語った。Ⅲ-03でAttiaは「代謝は四大疾患すべての土台であり、運動が最強の介入である」と語った。Ⅲ-04でInchauspéは「一回の食事の食べ方が血糖値の波形を変える」と語った。

これらはすべて、代謝の「制御」を論じている。しかし、Laneが問うのはその手前にある。なぜ代謝はこのように設計されているのか。

mTORが成長と修復を切り替えるのは、エネルギー配分の最適化のためである。インスリンが脂肪蓄積を促すのは、飢餓に備えたエネルギー貯蔵のためである。そしてこれらすべてのエネルギーを生み出しているのが、ミトコンドリアである。

López-Otín et al.(2013)が「老化の徴候」として挙げた9項目のうち、ミトコンドリア機能不全はその一つであると同時に、他の多くの徴候の上流に位置する4。代謝を語るとは、ミトコンドリアを語ることである。

結び

代謝は固定された機械ではない。それは、20億年前の共生から始まった、エネルギーと情報の動的なシステムである。

Longoが語った断食の効果も、Fungが語ったインスリンの暴走も、Attiaが語った運動の処方も、Inchauspéが語った食べ順の工夫も、すべてはミトコンドリアが生み出すエネルギーの上に成り立っている。

代謝を制御しようとする前に、まず問うべきことがある。なぜ、このシステムは存在するのか。Laneの答えは、40億年の進化史そのものである。

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参考文献

  1. 1.Lane N. Power, Sex, Suicide: Mitochondria and the Meaning of Life. Oxford University Press. 2005.
  2. 2.Lane N, Martin W. The energetics of genome complexity. Nature. 2010.
  3. 3.Harman D. The biologic clock: the mitochondria? J Am Geriatr Soc. 1972.
  4. 4.López-Otín C, et al. The hallmarks of aging. Cell. 2013.
  5. 5.Lane N. The Vital Question. Profile Books. 2015.
  6. 6.Wallace DC. A mitochondrial paradigm of metabolic and degenerative diseases. Genetics. 2005.