― トラウマと身体性 ―
トラウマは心だけでなく身体に刻まれる――ヴァン・デア・コークは脳画像研究と臨床経験をもとに、従来の心理療法の限界を指摘し、EMDR・ニューロフィードバック・ヨーガなど身体性に着目した回復の道を提示する。
トラウマは「心の傷」と呼ばれる。しかし、ヴァン・デア・コークが30年の臨床と研究から到達した結論は異なる。
トラウマは身体に記録される。脳と心と体のつながりを回復させない限り、真の治癒はない。
著者:ベッセル・ヴァン・デア・コーク(Bessel van der Kolk)
原題:The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma
翻訳:柴田裕之
出版社:紀伊國屋書店
初版:2016年(原著2014年)
ISBN:978-4314011402
ヴァン・デア・コークは、fMRIやPETを用いた脳画像研究の先駆者である。彼の研究チームは、トラウマを想起する際にブローカ野(言語産出領域)が不活性化し、扁桃体が過活動になることを示した1。
この発見は決定的な意味を持つ。トラウマ体験は言語化できない。なぜなら、トラウマの記憶は言語を司る脳領域を迂回して、身体感覚と情動の回路に直接刻まれるからである。
「フラッシュバック」とは、過去の記憶の想起ではない。身体が過去を「再体験」しているのである。心拍数の上昇、発汗、筋肉の硬直――これらは記憶ではなく、現在進行形の身体反応である2。
ヴァン・デア・コークは、従来の心理療法――特に認知行動療法(CBT)と薬物療法――の限界を率直に指摘する。
CBTは認知の歪みを修正することで症状の改善を目指す。しかし、トラウマの記憶が言語を迂回して身体に刻まれているとすれば、言語的介入だけでは根本に届かない。SSRIなどの薬物は症状を緩和するが、身体に刻まれたトラウマの痕跡を消去するわけではない3。
ヴァン・デア・コークが繰り返し強調するのは、トラウマ治療は「上から下へ」(トップダウン)だけでなく、「下から上へ」(ボトムアップ)のアプローチが不可欠だということである。身体を通じて安全感を回復させることが、治療の核心にある。
本書の後半は、身体性に着目した治療法の詳細な紹介に充てられる。
EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)は、トラウマ記憶を想起しながら眼球を左右に動かすことで、記憶の情動的負荷を軽減する。WHOがPTSD治療として推奨する手法であり、複数のRCTでその有効性が確認されている4。
ニューロフィードバックは、脳波をリアルタイムでモニタリングし、患者自身が脳の活動パターンを調整することを学ぶ手法である。ヴァン・デア・コークのチームは、ニューロフィードバックがPTSD症状を有意に改善することを報告している5。
トラウマ・センシティブ・ヨーガは、安全な環境で身体感覚に注意を向ける練習を通じて、身体の「所有感」を取り戻すアプローチである。ヴァン・デア・コークらのRCTは、ヨーガがPTSD症状を有意に改善し、その効果が薬物療法に匹敵することを示した6。
本書は、Ⅵ棚の中核に位置する。Ⅵ-01(熊澤)が痛みの脳科学を論じ、Ⅵ-02(ライマン)が痛みの多層性を論じたのに対し、本書はトラウマという極限的な痛みが身体にどう刻まれるかを論じる。
Ⅱ棚(脳)との接続も深い。ラマチャンドランが幻肢痛を通じて脳の可塑性を論じたように、ヴァン・デア・コークはトラウマを通じて脳と身体の不可分性を論じる。
そしてⅣ棚(免疫)との接続。慢性的なストレスとトラウマは免疫系に深刻な影響を与え、炎症性サイトカインの上昇を通じて身体疾患のリスクを高める7。心と身体と免疫は、一つの環を描いている。
ヴァン・デア・コークは、トラウマ治療の常識を覆した。
身体はトラウマを記録する。そして、身体を通じてこそ、トラウマから回復できる。
この本は、心と身体の二元論を超えて、人間の全体性を取り戻すための道標である。