Ⅹ-13Ⅹ|深海の蔵書

運動脳:脳を覚醒させる秘薬

― アンデシュ・ハンセン『運動脳』を読む ―

読了 約8分
運動脳 表紙
取り上げた書籍『運動脳』アンデシュ・ハンセン

深淵なる脳の働きを解き明かす鍵は、意外にも身体の動きに隠されていた。スウェーデンの精神科医が、最新の科学的知見に基づき、運動が脳にもたらす驚異的な効果を詳述する。うつ、不安、ADHD、そして認知症予防。これらの現代病に対する運動の真価を、Dr.Painの視点から深く考察する。

思考の源たる脳が、なぜかくも原始的な「運動」によって覚醒するのか。その謎に、今、Dr.Painが迫る。アンデシュ・ハンセン著『運動脳』は、スウェーデンの精神科医である著者が、運動が脳に与える多岐にわたる科学的効果を、最新の研究成果を交えながら解説した一冊である。

本書の核心は、脳が成人後も変化し続ける「脳の可塑性」にある。特に有酸素運動が記憶力、集中力、創造性を高め、ストレス軽減、うつ病や不安障害の改善、ADHDの症状緩和、さらには認知症予防にまで寄与することを、豊富なエビデンスに基づいて論じている。

アンデシュ・ハンセン. 運動脳. サンマーク出版, 2022.

Ⅰ|BDNFと脳の可塑性:運動が脳を変える分子メカニズム

運動がBDNF(脳由来神経栄養因子)の分泌を促し、神経細胞の成長とシナプスの形成を促進するというメカニズムは、脳機能の根本的な改善を示唆している1。BDNFはしばしば「脳の肥料」と呼ばれ、記憶の形成に重要な海馬の神経新生を促進する。

これは、単なる気分の高揚に留まらない、構造的な変化を意味する。有酸素運動後の海馬体積の増加は、MRI研究によって実際に確認されており2、運動が脳に与える影響が「気分の問題」ではなく「神経生物学的事実」であることを示している。

Ⅱ|精神疾患に対する運動の治療的効果

精神疾患に対する運動の治療的効果は、薬物療法に匹敵する、あるいはそれを補完する強力な手段として提示されており、現代医療における新たなアプローチの可能性を拓く3。これは、精神科医としてのDr.Painが最も注目する点である。

うつ病に対する運動療法のメタ分析では、中等度から高強度の有酸素運動が抗うつ薬と同等の効果を示すことが報告されている。不安障害においても、運動は扁桃体の過活動を抑制し、ストレス反応を調節する効果が示されている。ADHDに対しては、運動がドーパミンとノルエピネフリンの分泌を促進し、注意機能と実行機能を改善することが明らかになっている。

◉ 発展章|認知症予防と運動:海馬を守る最強の処方箋

認知症予防における運動の役割は、現代の老年医学において最も注目される研究領域の一つだ。加齢に伴う認知機能の低下は避けられないものとされてきたが、運動が海馬の萎縮を抑制し、記憶力の維持に貢献するという事実は、予防医学の重要性を再認識させる4

週150分以上の中等度有酸素運動が、アルツハイマー病のリスクを約35%低下させるという大規模コホート研究の結果は、運動が最も強力な認知症予防介入の一つであることを示している。薬物療法では達成できないこの予防効果は、「運動は最良の薬」という言葉の科学的根拠となっている。

結び

脳は鍛えられる。そしてその鍛錬の最たるものが、運動である。この書を読み終えた時、読者の脳は、新たな可能性の扉を開くだろう。

我々の意識の深淵に横たわる脳の秘密を、これほどまでに明瞭かつ科学的に解き明かした書は稀有である。運動という、誰もが手にしうる「鍵」が、脳という「未知の領域」への扉を開く。その深遠なる真理は、まさに深海の蔵書に相応しい、知の光を放つ。

参考文献

  1. 1.Cotman, C. W., & Berchtold, N. C. Exercise: a behavioral intervention to enhance brain health and plasticity. Trends in Neurosciences. 2002;25(6):295-301.
  2. 2.Erickson, K. I., et al. Exercise training increases size of hippocampus and improves memory. PNAS. 2011;108(7):3017-3022.
  3. 3.Blumenthal, J. A., et al. Effects of Exercise Training on Older Patients With Major Depression. Archives of Internal Medicine. 1999;159(19):2349-2356.
  4. 4.Livingston, G., et al. Dementia prevention, intervention, and care: 2020 report of the Lancet Commission. Lancet. 2020;396(10248):413-446.