― 康永秀生『すべての医療は「不確実」である』を読む ―

EBMの光と影、ビッグデータとAIの可能性と限界。医療の不確実性を直視し、その先にある「医療の目的」を問い直す。
現代医療は、科学技術の進歩とともに、かつては不治とされた多くの病を克服してきた。しかし、その一方で、私たちは日々、医療に関する無数の情報に晒され、時にその海の中で溺れそうになる。「抗がん剤は効かない」「ワクチンは危険だ」といったセンセーショナルな言説から、効果の定かではない健康食品の広告まで、何が真実で、何を信じるべきなのかを見極めることは容易ではない。
このような情報過多の時代において、東京大学大学院医学系研究科教授である康永秀生氏の著書『すべての医療は「不確実」である』(NHK出版新書、2018年)は、羅針盤のような役割を果たす一冊と言えるだろう。本書は、医療という営みが本質的に「不確実性」を内包するものであることを、冷静かつ多角的な視点から解き明かしていく。
中心となる問いは、科学的根拠に基づく医療(EBM)が主流となった現代において、なお根強く残り続ける医療の不確実性に、私たちはどう向き合い、いかにして賢明な意思決定を行っていくべきか、という点にある。本書を道標とし、医療の「目的」とは何かを改めて問い直す旅を始めたい。
著:康永秀生|『すべての医療は「不確実」である』|ISBN:9784140885674
現代医療の根幹をなす概念の一つに、「根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine, EBM)」がある。これは、個々の医師の経験や勘だけに頼るのではなく、科学的に検証された信頼性の高いデータ(エビデンス)に基づいて、患者にとって最善の治療方針を決定するという考え方である。EBMは1990年代に提唱されて以来、医療の質の向上と標準化に大きく貢献してきた。1
本書では、EBMがもたらした変革を、いくつかの具体的な事例を通して示している。例えば、かつて喫煙のリスクは漠然としか認識されていなかったが、大規模な疫学研究によって、喫煙が肺がんをはじめとする多くの疾患の確実な原因であることが突き止められた。また、インフルエンザ治療薬タミフルの効果や副作用に関する議論、乳がん検診におけるマンモグラフィの有効性と限界など、EBMはこれまで「常識」とされてきた医療行為を客観的な俎上に載せ、その価値を厳密に問い直してきたのである。
しかし、著者は同時に、EBMが決して万能ではないことも強調する。科学的エビデンスは、あくまで集団を対象とした統計的なデータであり、目の前にいる一人ひとりの患者にそのまま適用できるとは限らない。また、エビデンスがまだ存在しない新たな疾患や治療法に直面したとき、あるいは複数の治療選択肢が拮抗する場合など、EBMだけでは答えを出せない領域が厳然として存在する。科学的根拠という光が強ければ強いほど、その光が届かない影の部分もまた、色濃く浮かび上がってくるのである。
EBMが依拠する科学的エビデンスを、より強力に、そして迅速に生み出す可能性を秘めているのが、ビッグデータと人工知能(AI)である。電子カルテや診療報酬明細書(レセプト)といった形で日々蓄積される膨大な医療データは、これまで見過ごされてきた治療法間の効果の違いや、特定の患者群におけるリスクなどを明らかにし始めている。
本書で紹介されているように、例えば、ある種の手術をどの程度の経験を持つ外科医が執刀すべきか、あるいは脳梗塞後の患者にどのような薬剤を投与するのが最も効果的かといった問いに対して、ビッグデータ解析は統計的な裏付けのある答えを提示しつつある。さらに、AIによる画像診断支援は、人間の目では捉えきれない微細な病変を発見し、診断の精度を飛躍的に向上させることが期待されている。これは、当図書館のⅦ棚で紹介されている『AIに看取られる日』(Ⅶ-04)が描く、AIが医療のパートナーとなる未来像とも共鳴する。8テクノロジーは、医療の不確実性を着実に低減させ、より個別化された医療への道を切り拓きつつあると言えるだろう。
しかし、著者はここでも安易な楽観論に警鐘を鳴らす。データはあくまで過去の診療の記録であり、未来を完全に予測するものではない。また、AIの判断根拠がブラックボックス化しやすいという問題や、データに含まれるバイアスが不適切な結論を導き出すリスクも存在する。ビッグデータとAIは強力な武器であるが、それ自体が新たな種類の不確実性を生み出す可能性もまた、私たちは見据えておかなければならない。
EBMが医療の標準となる一方で、世の中には科学的根拠が乏しい、あるいは全くない治療法や健康情報が溢れている。なぜ人々は、そうした不確かな情報に惹きつけられてしまうのだろうか。著者は、その背景にある人間心理や社会的な要因を鋭く分析する。
病という困難に直面したとき、人は藁にもすがる思いで、あらゆる可能性に救いを求める。そこに「絶対に治る」といった断定的な言葉や、劇的な回復を謳う体験談が提示されれば、たとえその根拠が曖昧であっても、心を動かされてしまうのは無理からぬことかもしれない。また、標準的な医療に対する不信感や、より「自然」で「体に優しい」治療を求める志向も、代替医療への期待を高める一因となっている。
この問題は、当図書館のⅦ棚に収められた『「健康」から生活をまもる』(Ⅶ-05)で論じられている、現代社会における「健康」への過剰な期待とも深く関連している。7私たちは、常に健康でなければならないという強迫観念に駆られ、わずかな不調やリスクさえも許容できなくなりつつある。その結果、本来は不要な検査や治療にまで手を出す「過剰医療」に陥りやすい。EBMが有効に機能する範囲には自ずと限界があり、その外側では、人々の不安や期待が、根拠のない治療法が生まれる土壌となっているのである。
本書は、こうした状況の中で、私たちがデタラメな医療情報に惑わされず、賢明な意思決定を行うための具体的な指針を提示する。「個人の感想です」という免責事項の裏にあるもの、動物実験の結果を安易に人間に当てはめることの危険性、そしてセンセーショナルなメディア報道の裏側など、情報を批判的に吟味するためのリテラシーの重要性を説いている。
本書が最終的に読者に提示するのは、医療の不確実性を単に克服すべき対象として捉えるのではなく、それと共存していくための知恵である。そして、そのための羅針盤となるのが、科学的根拠と、一人ひとりの患者が紡ぎ出す「物語(ナラティブ)」の統合である。
医療における不確実性は、治療法の選択という局面だけに存在するわけではない。そもそも「健康」とは何かという根源的な問い自体が、多様な価値観に開かれている。当図書館のⅧ棚の冒頭を飾る『人間にとって健康とは何か』(Ⅷ-01)では、病気や障害を抱えながらも、いかにして主体的に人生を構築していくかという「健康生成論(Salutogenesis)」の視点が紹介されている。これは、単に病気がない状態を「健康」とするのではなく、困難な状況に適応し、意味を見出していく力(首尾一貫感覚、Sense of Coherence)こそが重要であると捉える考え方だ。この視点に立てば、医療の不確実性は、克服すべき障害ではなく、むしろ人間が持つレジリエンス(回復力)が発揮されるべき舞台として捉え直すことができる。2, 4
統計的なデータや確率論で語られるEBMは、いわば海図のようなものである。それは航海の安全性を高めるために不可欠だが、個々の船がどのような嵐に遭遇し、どのような港を目指すのかまでは教えてくれない。そこで重要になるのが、患者自身の物語、すなわちナラティブである。リタ・シャロンが『ナラティブ・メディスン』(Ⅷ-04)で提唱したように、患者が自らの病の体験を語り、医療者がそれに耳を傾けるプロセスは、統計的な正しさだけでは掬い取ることのできない、その人固有の価値観や人生の文脈を明らかにする。3, 6科学的根拠という客観的な「地図」と、個人の物語という主観的な「羅針盤」を共に用いること。それこそが、不確実性という荒波の海を渡り、それぞれの患者にとっての最善の航路を見出すための鍵となるのである。
不確実性の先にある希望
康永秀生氏の『すべての医療は「不確実」である』は、私たちを医療という営みの原点に立ち返らせてくれる。医療の目的とは、決して病を100%根絶し、死を完全に克服することではない。むしろ、避けがたい不確実性という現実を直視し、その中でいかにして一人ひとりの人間が、自らの価値観に沿ったより良い生(well-being)を全うできるかを支援することにあるのではないだろうか。
本書の議論は、この「医療未来図書館」がⅠ棚からⅧ棚に至るまで、40冊の書籍を通して探求してきたテーマの核心に触れるものである。健康の定義の多様性(Ⅷ-01)、物語の力(Ⅷ-04)、過剰医療の問題(Ⅶ-05)、そしてAI医療の可能性と限界(Ⅶ-04)。これらの議論はすべて、「不確実性」という一つのキーワードへと収斂していく。
医療の未来は、おそらくこれからも不確実性に満ちているだろう。新たなテクノロジーが生まれても、未知の病が出現し、治療法に悩む状況がなくなることはない。しかし、本書が示すように、その不確実性こそが、私たちに謙虚さを教え、対話を促し、より人間的な医療を創造していく原動力となるのかもしれない。
確かな答えがないからこそ、私たちは学び続ける。専門家も、患者も、そして社会全体が、対話を重ね、知恵を出し合いながら、より良い未来を模索していく。その終わりなき探求の旅路にこそ、医療の真の希望はある。本書は、そのための確かな一歩を踏み出す勇気を与えてくれる一冊である。