Ⅷ-04Ⅷ|医療の思想

医療は「物語」を必要とするか

― リタ・シャロン『ナラティブ・メディスン』を読む ―

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ナラティブ・メディスン ― 物語能力が医療を変える 表紙
取り上げた書籍『ナラティブ・メディスン ― 物語能力が医療を変える』リタ・シャロン 著、斎藤清二ほか訳

EBMが見落とす患者の「物語」。コロンビア大学教授が提唱する「物語能力」は、医療をどう変えるのか。

現代医療の根幹をなすエビデンス・ベイスト・メディスン(EBM)は、科学的根拠に基づいた治療の標準化を推し進め、医療の質の向上に大きく貢献してきた。しかしその一方で、客観的なデータや統計的確率を重視するあまり、病に苦しむ個々の患者が抱える唯一無二の体験や価値観といった、主観的な側面が見過ごされがちであるという批判も絶えない。こうした現代医療の課題に対し、患者の「物語(ナラティブ)」に耳を傾けることの重要性を説き、医療のあり方を根底から問い直すのが、コロンビア大学医学部教授リタ・シャロンによる『ナラティブ・メディスン ― 物語能力が医療を変える』である。

本書の中心命題は、医療者が患者の語る病いの物語を認識し、吸収し、解釈し、それに心動かされて行動するために不可欠な「物語能力(narrative competence)」を培うことの重要性にある。シャロンは、ナラティブ・メディスンをEBMと対立するものとしてではなく、むしろそれを補完し、より人間味のある効果的な医療を実践するための重要な視座として位置づける。本稿では、本書の議論を追いながら、医療はなぜ「物語」を必要とするのか、そして物語能力が臨床現場でいかなる意味を持つのかを探求していく。

書誌情報:リタ・シャロン著、斎藤清二・岸本寛史・宮田靖志・山本和利訳『ナラティブ・メディスン ― 物語能力が医療を変える』、医学書院、2011年、ISBN: 978-4-260-01333-8

著:リタ・シャロン 著、斎藤清二ほか訳|『ナラティブ・メディスン ― 物語能力が医療を変える』|ISBN:9784260013338

Ⅰ|EBMの光と影

EBMは、20世紀末から医療界を席巻してきたパラダイムであり、その功績は計り知れない。個々の医師の経験や勘に頼るのではなく、大規模な臨床試験によって得られた客観的エビデンスを治療方針の決定に用いることで、医療の標準化と質の担保が図られた。しかしシャロンは、このEBMの「光」が落とす「影」の部分に光を当てる。EBMが依拠するランダム化比較試験などの手法は、平均的な患者像を導き出す上では強力だが、目の前にいる特異的な背景を持つ一人の人間を理解するには限界がある。本書は、EBMが患者を疾患やデータの集合体として客体化し、その人自身の声、すなわち「物語」を周縁化してしまう危険性を指摘する。

この指摘は、科学的客観性と個人の主観性をめぐる哲学的な問いへと繋がる。近代科学は、測定可能で普遍的な法則を追求する中で、個別の主観的体験を二次的なものとして扱ってきた。EBMもまた、その系譜の上にあると言える。しかし、医療の対象は単なる生物学的身体ではなく、意識、感情、そして人生の物語を持つ主体である。本書の議論は、EBMの科学的合理性を否定するのではなく、その適用範囲の限界を自覚し、科学の「外部」にある患者の主観的世界と対話する必要性を訴えかける。それは、医師がエビデンスという名の権威に安住することなく、常に患者との間に横たわる距離を意識し、それを乗り越えようと努める倫理的実践への呼びかけでもある。

Ⅱ|「物語能力」という新たなコンピテンス

では、EBMの限界を補うために医療者は何をすべきか。シャロンが提示する答えが「物語能力(narrative competence)」の涵養である。彼女はこれを「病いの物語を認識し、吸収し、解釈し、それに心動かされて行動する能力」と定義する。これは単なる「共感」や「傾聴」といったコミュニケーション・スキルとは一線を画す、より知的で批評的な能力である。患者の語りをただ受動的に聞くのではなく、その語りの構造、用いられるメタファー、沈黙や矛盾の意味などを能動的に読み解き、患者が自らの体験をどのように意味づけているのかを深く理解しようと試みる。

この能力は、文学研究の方法論に多くを負っている。文学作品の精読を通じて、読者が登場人物の複雑な内面や、語りの背後にある多層的な意味を読み解くように、医療者もまた患者という「テクスト」を精読することが求められる。しかし、ここで重要なのは、臨床における距離感の問題である。物語能力の実践は、患者の苦悩に深く寄り添うことを求めるが、それは患者の物語に完全に同一化し、専門家としての客観性を失うことと同義ではない。むしろ、シャロンが強調するのは、患者の物語世界に没入しつつも、同時にそれを批評的に分析し、医学的知識と結びつけていく複眼的な視座である。この緊張関係の中にこそ、ナラティブ・メディスンの実践の核心と困難さが存在する。

Ⅲ|客観化できない「痛み」をどう聴くか

ナラティブ・メディスンの重要性が特に際立つのが、「痛み」のような主観的な症状を扱う場面である。Ⅵ棚で論じられたように、痛みは本質的に私的な体験であり、客観的な測定が極めて困難である。他者はその人の痛みを直接感じることはできず、ただその人が発する言葉や表情、振る舞いを通じて推し量るしかない。ここに、患者の「語り」が決定的な重要性を持つ理由がある。患者が自らの痛みを「ズキズキする」「焼けるようだ」「締め付けられる」といったメタファーを用いてどのように表現するかは、診断や治療において極めて重要な手がかりとなる。

本書は、患者の語りを単なる症状のリストとしてではなく、その人の人生の文脈の中に位置づけられた物語として聴くことを要求する。痛みという体験が、その人の仕事や家族関係、人生観にどのような影響を及ぼしているのか。その物語を丁寧に紐解くことで、医療者は痛みの生物医学的な側面だけでなく、心理社会的、あるいは実存的な側面をも含めた全人的な理解に至ることができる。しかし、ここでもまた倫理的な問いが立ち上がる。医師は患者の語りをどこまで「真実」として受け入れるべきなのか。語られた物語と、身体が示す客観的な所見との間に齟齬があった場合、それをどう解釈すべきか。物語の解釈には常に誤読の可能性がつきまとい、その解釈に基づいて行われる医療行為は、患者の人生に直接的な影響を及ぼす。物語を聴くという行為は、それ自体が重い倫理的責任を伴うのである。

Ⅳ|医療者は「読む人」であり「書く人」である

シャロンは、物語能力を養うための具体的な方法として、医学教育における文学の導入を実践している。文学作品を読むことを通じて、医学生は多様な人間の生き様や葛藤に触れ、複雑な状況を多角的に捉える訓練を積む。それは、自らの価値観や思い込みを相対化し、他者の視点を想像する能力を育むことに繋がる。医療を、正解が一つとは限らない曖昧で不確実な状況の中で、最善の解釈を探求していく「解釈学的な営み」として捉え直すとき、文学の知見は大きな示唆を与えてくれる。

さらに本書は、「読む」ことだけでなく「書く」ことの重要性も強調する。特にシャロンが提唱する「パラレル・チャート(parallel chart)」は興味深い実践である。これは、通常の診療録とは別に、医師が患者について、あるいは患者との関わりの中で自らが感じたこと、考えたことを自由に書き記すというものだ。客観的な記録が求められる診療録とは異なり、パラ-レル・チャートは医師自身の主観的な内省の場となる。この実践は、医師が患者を一人の人間としてより深く理解する助けとなるだけでなく、自らの感情的な反応や偏見に気づき、燃え尽き症候群を防ぐといった効果も期待される。医療者を単なる科学的知識の適用者としてではなく、物語を読み、そして自らもまた物語を紡ぐ主体として捉え直す視点は、ナラティブ・メディスンの独創的な貢献と言えるだろう。

結び

リタ・シャロンの『ナラティブ・メディスン』は、EBMが席巻する現代医療に対し、人間という存在の物語的側面への回帰を力強く促す書である。本書が提示する「物語能力」は、既存の医療モデルを否定するものではなく、むしろそれを豊かにし、より効果的で人間的なものにするための補完的な視座を提供する。患者の語りに耳を傾け、その物語を尊重することは、単なる人道的な配慮にとどまらず、より正確な診断と適切な治療、そして患者と医療者の間の信頼関係の構築に不可欠な、医療の核心的実践なのである。

もちろん、ナラティブ・メディスンの実践には多くの課題も残されている。限られた診療時間の中で、いかにして患者の物語を深く聴く時間を確保するのか。物語の解釈における主観性をどうコントロールするのか。物語能力をいかにして評価し、教育していくのか。これらの問いに簡単な答えはない。しかし、本書は、医療が単なる科学技術の応用ではなく、人間と人間との関わり合いそのものであるという原点を、改めて我々に思い起こさせてくれる。医療は「物語」を必要とするか。本書を読んだ後、その答えは明確に「然り」であると、多くの読者は確信するだろう。そしてその問いは、医療の目的とは何か、というより根源的な問い(Ⅷ-05)へと続いていくのである。

参考文献

  1. 1.斎藤清二. EBMとNBM(narrative based medicine) : 医療における物語と対話. 心身医学. 2004.
  2. 2.Greenhalgh T. Narrative based medicine in an evidence based world. BMJ. 1999.
  3. 3.Meisel ZF, Karlawish J. Narrative versus evidence-based medicine. JAMA. 2011.
  4. 4.藤田真弥. ナラティヴ・ベイスト・メディスン再考. 生命倫理. 2012.
  5. 5.斎藤清二. 医療におけるナラティブ・アプローチの最新状況. 日本内科学会雑誌. 2019.
  6. 6.Charon R. Narrative Medicine: Honoring the Stories of Illness. Oxford University Press. 2006.