Ⅹ-28Ⅹ|深海の蔵書

筋肉は語る:マイオカインが解き明かす健康長寿の分子機構

― 青井渉『筋肉はすごい:健康長寿を支えるマイオカイン』を読む ―

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筋肉はすごい:健康長寿を支えるマイオカイン 表紙
取り上げた書籍『筋肉はすごい:健康長寿を支えるマイオカイン』青井渉

筋肉は単なる運動器官ではない。収縮するたびに「マイオカイン」と呼ばれるホルモン様物質を分泌し、脳・肝臓・脂肪・腸・免疫系に働きかける「分泌臓器」だ。本書は京都大学の青井渉教授が、医学・栄養学・スポーツ科学の最前線から筋肉の驚くべき機能を解き明かす。サルコペニア、がん予防、認知症抑制、アンチエイジング——筋肉を鍛えることは、全身の健康を守る最も根拠ある投資である。

「筋肉は収縮するだけ」という古い常識は、もはや過去のものだ。2000年代以降の研究が明らかにしたのは、骨格筋が内分泌臓器として機能するという革命的な事実である。筋肉が収縮するたびに分泌される「マイオカイン(myokine)」は、血流を介して全身の臓器に信号を送り、代謝・免疫・神経系を制御する。

京都大学大学院農学研究科の青井渉教授による本書『筋肉はすごい:健康長寿を支えるマイオカイン』(中公新書、2025年)は、この新しい筋肉生物学を一般読者に向けて丁寧に解説した力作だ。医学・栄養学・スポーツ科学の三つの視点から、筋肉がいかに健康長寿の鍵を握るかを論じる。

青井渉. 筋肉はすごい:健康長寿を支えるマイオカイン. 中公新書 2878. 中央公論新社, 2025.

Ⅰ|筋肉という「分泌臓器」の発見

骨格筋が内分泌機能を持つという概念は、2003年にデンマークの生理学者Bente Pedersenらが発表した論文に端を発する。彼女らは運動中に筋肉から分泌されるIL-6(インターロイキン6)が、抗炎症作用を持つことを発見した1。これは従来、IL-6が炎症性サイトカインとして知られていたことを覆す発見であり、運動の抗炎症効果の分子的基盤を初めて示した。

現在までに100種類以上のマイオカインが同定されており、その多様な機能が明らかになりつつある。主要なマイオカインには以下のものが含まれる:

  • IL-6:脂肪分解促進・抗炎症・インスリン感受性改善
  • BDNF(脳由来神経栄養因子):神経新生促進・認知機能改善
  • Irisin(イリシン):白色脂肪の褐色化・骨形成促進
  • SPARC:大腸がん抑制・腫瘍細胞のアポトーシス誘導
  • Meteorin-like:抗炎症・インスリン抵抗性改善

これらのマイオカインは、筋肉が単なる「動力源」ではなく、全身の恒常性を維持する中枢的な制御器官であることを示している2

Ⅱ|サルコペニアと老化:筋肉が失われるとき

加齢に伴う筋肉量・筋力・身体機能の低下を「サルコペニア(sarcopenia)」と呼ぶ。ギリシャ語で「肉の喪失」を意味するこの概念は、1989年にIrwin Rosenbergが提唱した。現在、日本の65歳以上の高齢者の約15〜25%がサルコペニアを有すると推定されており3、転倒・骨折・要介護状態への移行リスクを著しく高める。

サルコペニアの分子機構として、青井教授は以下の点を詳述する。まず、加齢とともに筋タンパク質の合成速度が低下し、分解が合成を上回る「異化優位」の状態が続く。これにはmTORC1シグナルの減弱、ミオスタチン(筋肉増殖抑制因子)の増加、そして慢性的な低グレード炎症(inflammaging)が関与する。

重要な知見として、サルコペニアは「不可避の老化現象」ではなく、適切な運動と栄養介入によって予防・改善が可能であることが示されている。特に抵抗運動(レジスタンストレーニング)は、高齢者においても筋タンパク質合成を促進し、筋肉量を増加させる効果が確認されている4

Ⅲ|マイオカインとがん予防:SPARCの衝撃

本書の中で最も注目すべき章の一つが、マイオカインによるがん予防のメカニズムだ。特に「SPARC(Secreted Protein Acidic and Rich in Cysteine)」は、大腸がん予防における運動効果の鍵を握る分子として注目されている。

疫学研究は一貫して、身体活動量の多い人ほど大腸がんリスクが低いことを示してきた。そのメカニズムとして長らく「腸管通過時間の短縮」「インスリン・IGF-1の低下」などが挙げられてきたが、SPARCの発見はより直接的な分子経路を示した。

運動によって筋肉から分泌されたSPARCは、血流を介して大腸に到達し、腫瘍細胞のアポトーシス(プログラム細胞死)を誘導する5。マウスを用いた実験では、SPARC欠損マウスで大腸腫瘍の発生率が有意に増加し、運動によるがん予防効果が消失することが確認されている。これは「運動はなぜがんを予防するのか」という問いに対する、分子レベルでの明確な答えの一つだ。

◉ 発展章|筋腸相関と脳筋連関:全身ネットワークとしての筋肉

青井教授が本書で特に力を入れて論じるのが「筋腸相関(muscle-gut axis)」と「脳筋連関(muscle-brain axis)」だ。これらは筋肉が腸内細菌叢や脳と双方向的に情報交換を行うという、新しい生体ネットワークの概念である。

筋腸相関:運動によって産生されるマイオカインは腸内環境を改善し、短鎖脂肪酸産生菌の増殖を促進する。逆に、腸内細菌が産生する代謝産物(酪酸など)は筋タンパク質合成を促進する。この双方向的な関係は、腸内細菌叢の改善が筋肉量の維持に貢献するという臨床的示唆を持つ6

脳筋連関:運動時に筋肉から分泌されるBDNF(脳由来神経栄養因子)とIrisinは、血液脳関門を通過して海馬の神経新生を促進する。これが運動による認知機能改善・認知症予防効果の分子的基盤となる7。アルツハイマー病患者の脳では、運動不足によるBDNF低下が神経変性を加速させる悪循環が生じている可能性がある。

これらの知見は、「筋肉を鍛えることは脳を守ること」という、医療者として患者に伝えるべき強力なメッセージを科学的に裏付けるものだ。

結び

『筋肉はすごい』は、筋肉生物学の最前線を一般読者に届ける優れた科学啓発書だ。マイオカインという概念を軸に、運動が健康に良い理由を分子レベルで解き明かし、サルコペニア・がん・認知症・老化という現代医療の最重要課題に対する筋肉の役割を明快に論じる。

Dr.Painとして特に強調したいのは、本書が示す「筋肉は受動的な運動器官ではなく、能動的な内分泌臓器である」というパラダイムシフトだ。これは疼痛医学においても重要な示唆を持つ。慢性疼痛患者は活動量が低下しやすく、サルコペニアのリスクが高い。筋肉量の低下は炎症性マイオカインの産生低下をもたらし、疼痛の慢性化を促進する悪循環を生む。「動くことが薬になる」という処方箋は、マイオカイン研究によって科学的に正当化された。

1日8000歩、週2〜3回の中強度筋力トレーニング——これが本書が提示する健康長寿への最も根拠ある投資だ。

参考文献

  1. 1.Pedersen BK, et al. Muscle-derived interleukin-6: possible biological effects. J Physiol. 2003;536(2):329-337.
  2. 2.Pedersen BK, Febbraio MA. Muscles, exercise and obesity: skeletal muscle as a secretory organ. Nat Rev Endocrinol. 2012;8(8):457-465.
  3. 3.Chen LK, et al. Asian Working Group for Sarcopenia: 2019 Consensus Update on Sarcopenia Diagnosis and Treatment. J Am Med Dir Assoc. 2020;21(3):300-307.
  4. 4.Liao CD, et al. Effects of protein supplementation combined with resistance exercise on body composition and physical function in older adults: a systematic review and meta-analysis. Am J Clin Nutr. 2017;106(4):1078-1091.
  5. 5.Aoi W, et al. A novel myokine, secreted protein acidic and rich in cysteine (SPARC), suppresses colon tumorigenesis via regular exercise. Gut. 2013;62(6):882-889.
  6. 6.Mailing LJ, et al. Exercise and the Gut Microbiome: A Review of the Evidence, Potential Mechanisms and Implications for Human Health. Exerc Sport Sci Rev. 2019;47(2):75-85.
  7. 7.Wrann CD, et al. Exercise induces hippocampal BDNF through a PGC-1alpha/FNDC5 pathway. Cell Metab. 2013;18(5):649-659.