― 斎藤環『人間にとって健康とは何か』を読む ―

病気がないことが健康なのか。精神科医が「健康生成論」と「首尾一貫感覚」の視点から、健康と幸福の逆説を解き明かす。
「健康」とは、どのような状態を指すのだろうか。多くの人が自明のものとして受け入れているこの問いに、精神科医の斎藤環は『人間にとって健康とは何か』(PHP新書、2016年)で、鋭いメスを入れる。本書は、現代社会に深く根ざした「健康」という価値観そのものを解きほぐし、新たな視座を提供する一冊である。
1946年に採択された世界保健機関(WHO)憲章は、「健康」を次のように定義している。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. (健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。) 1
この定義は、健康をたんに病気の不在としない点で画期的であった。しかし斎藤は、この「完全に良好な状態」という理想が高すぎることが、かえって多くの人々を「不健康」の側に追いやり、医療への過剰な依存を生み出しているのではないかと指摘する。完璧な健康という幻想が、私たちを生きづらくさせているのかもしれない。
本書は、こうした問題意識から出発し、「病気の原因」を探る従来の「疾病生成論」から、「健康の原因」を探る「健康生成論」へと視点を転換させる。その旅のなかで、私たちは「SOC(首尾一貫感覚)」や「レジリエンス」といった、困難な状況下でも私たちが健やかさを保つための心の働きに出会うことになる。Ⅷ棚「医療の思想」の冒頭に位置するこの記事では、斎藤の議論を道標に、「健康」の多面的な貌を明らかにし、私たち自身の健康観を問い直すきっかけを探っていく。
著:斎藤環|『人間にとって健康とは何か』|ISBN:9784569830841
近代医学は、病気の原因を特定し、それを取り除くことを主眼とする「疾病生成論(pathogenesis)」モデルに基づいて発展してきた。このアプローチは、感染症の克服や治療技術の進歩に絶大な貢献を果たしてきたことは言うまでもない。しかし、社会が豊かになり、人々の価値観が多様化するにつれて、その限界もまた明らかになってきた。
斎藤が本書で光を当てるのが、イスラエル系アメリカ人の医療社会学者アーロン・アントノフスキーが提唱した「健康生成論(salutogenesis)」である。これは、「人々はなぜ、ストレスの多い状況にありながらも健康でいられるのか」という問いから出発する。病気の原因ではなく、健康を維持し、促進する要因(salutary factors)に着目する点で、疾病生成論とは180度異なる発想を持つ。2
このパラダイムシフトは、単に医学的なアプローチの転換を意味するだけではない。それは、私たち一人ひとりが自らの健康の主体であることを再確認する作業でもある。健康を医師や医療システムに委ねるのではなく、自らの内なる資源を用いて、いかにして健やかな状態を「生成」していくか。健康生成論は、そのための新たな羅針盤を提供するのである。
健康生成論の中核をなす概念が、「首尾一貫感覚(Sense of Coherence: SOC)」である。アントノフスキーは、ホロコーストの強制収容所から生還した女性たちが、過酷な体験にもかかわらず比較的良好な心身の健康を保っていることに着目し、この概念にたどり着いた。3 SOCとは、人生で遭遇するさまざまな出来事を、認知的・感情的にどのように捉えるかという、個人の傾向性を指す。
SOCは、以下の三つの下位概念から構成される。
1. 把握可能性(Comprehensibility): 自分が直面している状況や、将来起こりうることを、ある程度予測でき、秩序だったものとして理解できるという感覚。「わかる」という感覚と言い換えることができる。
2. 処理可能性(Manageability): 困難な状況に直面しても、自分にはそれを乗り越えるための資源(自己の能力、家族や友人の支援など)が利用可能であると感じられる感覚。「できる」という感覚である。
3. 有意味感(Meaningfulness): 自分の人生で起こることや、自分が取り組んでいる課題は、関心を寄せ、エネルギーを投じる価値があると思える感覚。「意味がある」という感覚に相当する。
アントノフスキーによれば、これら三つの感覚、特に「有意味感」が高い人ほど、ストレスフルな出来事に遭遇しても心身の健康を損なうことなく、むしろそれを成長の糧とすることができる。SOCは、いわば人生の荒波を乗りこなすための「心のコンパス」のようなものだと言えるだろう。それは、あらかじめ定められた健康の基準に自分を合わせるのではなく、自分自身の物語のなかで、困難な出来事に意味を見出し、乗り越えていく力を与えてくれるのである。
SOCと並んで、現代の精神医学で注目されるもう一つの概念が「レジリエンス(resilience)」である。これは、深刻な逆境やストレスに直面しても、精神的な健康を維持し、回復する力を指す。4 しなやかな竹のように、外からの力で曲げられても、折れることなく元に戻る能力にたとえられる。
斎藤は本書で、このレジリエンスをめぐる、極めて挑発的な問いを投げかける。彼は、アドルフ・ヒトラーを「史上稀に見る高いレジリエンスの持ち主」として挙げるのだ。画家として挫折し、第一次世界大戦での敗戦という国家的屈辱を経験しながらも、彼はその逆境をバネに、ついには国家の頂点に上り詰めた。その過程において、彼の精神が「折れる」ことはなかった。この指摘は、私たちに根源的な問いを突きつける。「健康」であることは、常に「善」であると言えるのだろうか。
思想の善し悪しと健康の良し悪しは別物、といっているだけだ。
(中略)
「『健康』と『狂気』の組み合わせがもっともタチが悪いのかもしれない」
ヒトラーの例は、健康という価値が、倫理的な価値判断から独立している可能性を示唆する。そしてこのことは、現代社会に蔓延する「健康至上主義(ヘルシズム)」への痛烈な批判へとつながっていく。「健康であること」が絶対的な善とされ、不健康な状態が悪と見なされる風潮。私たちは、常に健康であることを強いられ、そこから逸脱することに罪悪感を抱くように仕向けられてはいないだろうか。斎藤の議論は、健康という名の新たな規範が、私たちを不自由にしている現実を鋭く暴き出す。
斎藤が提示する「健康」への問いは、医療未来図書館の他の棚に収められた知性とも響き合う。
例えば、Ⅷ-05で取り上げる康永秀生『すべての医療は「不確実」である』は、現代医療の根幹をなすEBM(科学的根拠に基づく医療)が、統計的な正しさを追求するあまり、個々の患者という「例外」を見過ごしてしまう危険性を指摘する。5 斎藤が描き出す、個人の主観的な物語に根ざしたSOCやレジリエンスという健康観は、EBMが持つ「客観性」の限界を補い、より人間的な医療のあり方を示唆していると言えるかもしれない。
また、Ⅶ-05で紹介される大脇幸志郎『「健康」から生活をまもる』は、健康であることが社会的な規範となり、人々を管理・支配する力として働く「健康という名の支配」を批判する。6 これは、斎藤が警鐘を鳴らすヘルシズムの問題意識と完全に軌を一にする。大脇が「過剰医療」という具体的な現象からこの問題を論じるのに対し、斎藤は「健康」という概念そのものの内実に迫ることで、より根源的な問いを投げかけている。両者を併せ読むことで、現代社会における「健康」の功罪が、より立体的に見えてくるだろう。
このように、斎藤の著作は、Ⅷ棚「医療の思想」の議論の出発点として、またⅦ棚「現代医療の諸問題」との架け橋として、極めて重要な位置を占めている。それは、私たちが当たり前だと思っている「健康」の足元を揺さぶり、より豊かで自由な生の可能性へと開かれているのである。
:あなた自身の「健康」の物語を紡ぐ
『人間にとって健康とは何か』は、「健康」に対する唯一無二の答えを提示する本ではない。むしろ、WHOが定義するような静的で完璧な健康のイメージから私たちを解放し、自分自身の人生の文脈のなかで、動的に「健康」を生成していくことの重要性を教えてくれる。
病気や障害、あるいは老いといった、かつては「不健康」の烙印を押されてきた状態も、健康生成論の視点から見れば、新たな意味を持つかもしれない。困難な状況のなかに「意味」を見出し(有意味感)、それを乗り越えるための資源に気づき(処理可能性)、自らの物語として理解し直す(把握可能性)こと。そのプロセス自体が、まさに「健康」を生成していく営みなのである。
この記事が、読者一人ひとりが自らの「健康」の物語を紡ぎ始める、その一助となれば幸いである。