Ⅴ-03Ⅴ|遺伝子

DNAの『外側』に書かれた暗号

― 仲野徹『エピジェネティクス』を読む ―

読了 約5分
エピジェネティクス 新しい生命像をえがく 表紙
取り上げた書籍『エピジェネティクス 新しい生命像をえがく』仲野徹

DNA配列は同じなのに、なぜ皮膚細胞と神経細胞は異なるのか。遺伝子の『外側』に書かれた情報が、生命の多様性と疾患の鍵を握る。

私たちの体を構成する約37兆個の細胞は、すべて同じDNA配列を持っている。にもかかわらず、皮膚細胞は皮膚として、神経細胞は神経として、肝細胞は肝臓として機能する。この謎を解く鍵が「エピジェネティクス」である。

大阪大学の病理学者・仲野徹は、この複雑な分野を一般読者に向けて平易に解き明かす。DNA配列そのものを変えることなく、遺伝子の発現を制御する仕組み――それがエピジェネティクスだ。

エピジェネティクスとは、DNA配列の変化を伴わない、細胞分裂を超えて維持される遺伝子発現の変化である。

著:仲野徹|『エピジェネティクス 新しい生命像をえがく』|出版社:岩波書店(岩波新書)|初版:2014年

Ⅰ|遺伝子のスイッチ――DNAメチル化とヒストン修飾

仲野はまず、エピジェネティクスの二大メカニズムを解説する。第一がDNAメチル化だ。シトシン塩基にメチル基(-CH₃)が付加されると、その領域の遺伝子は「沈黙」する。プロモーター領域のメチル化は、転写因子の結合を阻害し、遺伝子の発現を抑制する[1]

第二がヒストン修飾である。DNAはヒストンタンパク質に巻きついてクロマチン構造を形成している。ヒストンのアセチル化はクロマチンを緩め遺伝子発現を促進し、メチル化は場所によって促進にも抑制にも働く。この「ヒストンコード」は、遺伝子のオン・オフを精密に制御する[2]

仲野が強調するのは、これらの修飾が可逆的であるという点だ。DNA配列の変異は基本的に不可逆だが、エピジェネティックな修飾は環境や生活習慣によって変化しうる。この可逆性こそが、エピジェネティクスを医療の新たなフロンティアにしている。

Ⅱ|X染色体の不活性化とゲノムインプリンティング

エピジェネティクスの最も劇的な例が、X染色体の不活性化である。哺乳類の雌は2本のX染色体を持つが、発生の初期段階で各細胞において一方のXがほぼ完全に不活性化される。どちらのXが不活性化されるかはランダムであり、その結果、雌の体は父方X由来の細胞と母方X由来の細胞のモザイクとなる[3]。三毛猫の毛色パターンは、このモザイク性の可視的な表現である。

もう一つの重要な現象がゲノムインプリンティングだ。通常、父方と母方の遺伝子は対等に発現するが、インプリンティング遺伝子では一方の親由来のアレルだけが発現する。IGF2遺伝子は父方アレルのみが発現し、H19遺伝子は母方アレルのみが発現する。この「親の起源効果」は、胎児の成長をめぐる父方ゲノムと母方ゲノムの「綱引き」として進化的に説明される[4]

仲野はこれらの現象を通じて、同じDNA配列でも「読み方」が異なれば全く異なる結果が生じることを示す。遺伝子は楽譜であり、エピジェネティクスはその演奏法なのだ。

Ⅲ|エピジェネティクスと疾患

エピジェネティクスの異常は、多くの疾患と関連する。最も研究が進んでいるのががんである。がん細胞ではゲノム全体のDNAメチル化が低下する一方、がん抑制遺伝子のプロモーター領域では局所的な過剰メチル化が起こり、遺伝子が沈黙する[5]。この「エピジェネティックな沈黙」は、遺伝子変異と並ぶがん化の主要メカニズムである。

仲野はさらに、環境因子がエピジェネティクスを介して疾患リスクに影響する経路を解説する。1944〜45年のオランダ飢餓の冬に胎児期を過ごした人々は、成人後に肥満、心血管疾患、統合失調症のリスクが上昇した。驚くべきことに、その影響は孫世代にまで及んでいた[6]。胎児期の栄養環境がDNAメチル化パターンを変化させ、それが世代を超えて伝達された可能性がある。

遺伝子は変わらなくても、遺伝子の「読まれ方」は環境によって変わる。そしてその変化は、次世代に受け継がれうる。この発見は、「獲得形質は遺伝しない」というセントラルドグマに修正を迫るものである。

Ⅳ|エピゲノム創薬と再生医療

エピジェネティック修飾の可逆性は、治療標的としての可能性を開く。すでにDNAメチル化阻害薬(アザシチジン、デシタビン)やヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)阻害薬(ボリノスタット)が、骨髄異形成症候群や皮膚T細胞リンパ腫の治療薬として承認されている[7]

さらに注目すべきは、山中伸弥のiPS細胞技術との関連である。4つの転写因子(Oct4, Sox2, Klf4, c-Myc)の導入による体細胞の初期化は、本質的にはエピジェネティックな状態のリセットである。分化した細胞のメチル化パターンやヒストン修飾が消去され、多能性の状態に戻る。仲野はこれを「エピジェネティクスの最も劇的な応用」と位置づける。

2025年現在、エピゲノム編集――特定の遺伝子座のエピジェネティック状態だけを変える技術――の開発が進んでいる。CRISPR-Cas9の切断活性を不活性化し、代わりにメチル化酵素やアセチル化酵素を融合させた「エピゲノムエディター」は、DNA配列を変えずに遺伝子発現を制御する新たな治療戦略として期待されている。

結び

仲野は本書を通じて、生命を理解するにはDNA配列だけでは不十分であることを示した。遺伝子の「外側」に書かれた情報――エピジェネティクス――こそが、同一のゲノムから多様な細胞を生み出し、環境と遺伝子の対話を可能にしている。

Ⅴ-01でCRISPRによるDNA配列の編集を、Ⅴ-02で遺伝子決定論の限界を見た。本章が示すのは、生命の情報は二層構造であるということだ。一層目はDNA配列(ゲノム)、二層目はその読み方の指示書(エピゲノム)。そして二層目は、環境によって書き換えられ、時に世代を超えて伝達される。

遺伝子を「読む」ことの意味は、配列を解読することだけではない。その配列がどのような文脈で、どのように読まれているかを理解することである。

参考文献

  1. 1.Bird A. DNA methylation patterns and epigenetic memory. Genes Dev. 2002;16(1):6-21.
  2. 2.Jenuwein T, Allis CD. Translating the histone code. Science. 2001;293(5532):1074-1080.
  3. 3.Lyon MF. Gene action in the X-chromosome of the mouse (Mus musculus L.). Nature. 1961;190:372-373.
  4. 4.Haig D. Genomic imprinting and kinship. Rutgers University Press. 2002.
  5. 5.Jones PA, Baylin SB. The epigenomics of cancer. Cell. 2007;128(4):683-692.
  6. 6.Heijmans BT, Tobi EW, Stein AD, et al. Persistent epigenetic differences associated with prenatal exposure to famine in humans. Proc Natl Acad Sci USA. 2008;105(44):17046-17049.
  7. 7.Dawson MA, Kouzarides T. Cancer epigenetics: from mechanism to therapy. Cell. 2012;150(1):12-27.