― 柚月裕子『ミカエルの鼓動』を読む ―

柚月裕子の小説『ミカエルの鼓動』は、手術支援ロボット「ミカエル」を巡る医療ドラマである。神の手を持つベテラン外科医と、ロボット手術を推進する若き医師の対立を通じ、テクノロジーと人間の技、医療の倫理、そして命の意味を問う。本書を道標に、ロボット手術が拓く医療の未来と、そこに横たわる根源的な問いを探る。
医療技術の進歩は、かつて「神の領域」とされた分野に次々と足を踏み入れている。その最たる例が、手術支援ロボットであろう。柚月裕子による小説『ミカエルの鼓動』は、最新鋭の手術支援ロボット「ミカエル」を導入した大学病院を舞台に、医療の未来、技術と人間の関係、そして命の在り方をめぐる根源的な問いを投げかける物語である。本作はフィクションでありながら、現代医療が直面する課題と倫理的なジレンマを鋭く描き出し、私たちに深い思索を促す。1
物語の中心にあるのは、二人の対照的な心臓外科医である。一人は、ロボット手術の若き第一人者として「ミカエル」を駆使し、医療の標準化と効率化を推し進める西條。もう一人は、「神の手」と称される卓越した手技で数多の命を救ってきたベテラン、真木。難病の少年を救うため、二つの異なる信念が激しく衝突する。はたして、患者にとって最善の医療とは何か。それは精密な機械によってもたらされるのか、それとも熟練した人間の手によってのみ実現されるのか。本書は、この二項対立を超えた先にある医療の新たな地平を探る旅へと、私たちを誘うのである。
著:柚月裕子|邦題:『ミカエルの鼓動』|出版社:文藝春秋|文庫版:2024年
『ミカエルの鼓動』が提示する核心的な対立軸は、真木医師に象徴される「神の手」、すなわち卓越した個人の技量と、西條医師が信奉する手術支援ロボット「ミカエル」が代表する「機械の手」、すなわち標準化された精密技術との相克である。真木医師の手術は、長年の経験と研鑽に裏打ちされた芸術(アート)の域に達しており、その手技は他の医師には容易に模倣できない。それは患者一人ひとりの解剖学的特徴や病態に合わせた、オーダーメイドの医療と言える。しかし、その卓越性ゆえに、彼の引退は技術の喪失を意味し、医療の質が特定の個人に依存するという属人性の課題を浮き彫りにする。4
一方、西條医師が推進する「ミカエル」による手術は、この属人性の問題に対する一つの解答である。ロボットは人間の手の震えを補正し、狭い術野でも精密な操作を可能にする。理論上は、一定の訓練を積めば誰でも高水準の手術を再現でき、医療の均てん化に貢献する可能性を秘めている。6これは、医療を一部の天才から解放し、より多くの患者が高度な治療を受けられるようにするという、医療の民主化とも言えるビジョンである。しかし、物語は同時に、標準化されたプロトコルでは対応しきれない予期せぬ事態や、データ化できない患者の個別性という壁に「ミカエル」が直面する様も描き出す。
この「神の手」と「機械の手」の対立は、単なる技術選択の問題ではない。それは、医療の本質をめぐる哲学的な問いへと繋がっていく。医療は再現可能な科学技術なのか、それとも個々の状況に応じた判断と実践が求められる職人技(クラフト)なのか。本書は、この両者が互いに補完し合う未来を示唆する。真木が西條の助手を務める手術シーンは、人間の経験知と機械の精密性が融合する可能性を象徴的に描いている。それは、テクノロジーが人間の能力を拡張し、新たな次元の医療を切り拓くという、Ⅸ棚がテーマとする「未来技術」の理想的な姿かもしれない。5
小説に登場する「ミカエル」は、現実世界における手術支援ロボットの進化と課題を映し出す鏡である。現在、手術支援ロボット、特に「ダヴィンチ」に代表されるシステムは、泌尿器科、婦人科、消化器外科など多くの領域で普及し、低侵襲手術の実現に大きく貢献している。3D高精細画像によるクリアな術野、手ブレ補正機能、人間の関節の可動域を超える多関節機能などは、小説で描かれる「ミカエル」の能力と重なる。これにより、より精密な切除や縫合が可能となり、出血量の減少、術後疼痛の軽減、早期の社会復帰といった多大な恩恵を患者にもたらしてきた。5, 6
しかし、物語が示唆するように、その光には濃い影が伴う。一つは、高額なコストの問題である。ロボット本体の導入費用に加え、消耗品であるインストゥルメントにも多額の費用がかかり、それが医療経済を圧迫する一因となっている。このコストの問題は、結果的にロボット手術を受けられる施設や患者を限定し、医療格差を助長する可能性をはらむ。西條が「ミカエル」の有用性をアピールするために、メディアを利用し、病院経営の論理に組み込まれていく様は、こうした現実の課題を反映している。3
もう一つの大きな課題は、触覚の欠如である。現在の多くの手術支援ロボットは、術者が組織の硬さや縫合糸を締める際の張力を直接感じることができない。この触覚フィードバックの欠如は、予期せぬ組織損傷のリスクとなり得る。『ミカエルの鼓動』では、ベテランである真木医師が、自らの指先の感覚を頼りに手術を進める場面が対照的に描かれる。この「手の感触」というアナログな情報が、時にデジタルなデータだけでは捉えきれない重要な示唆を与えることを、物語は教えてくれる。触覚再現技術(ハプティクス)の開発は進められているが、人間の手の繊細な感覚を完全に再現するには至っておらず、テクノロジーと人間の技との間には、まだ埋めるべき距離が存在するのである。
『ミカエルの鼓動』は、技術的な側面だけでなく、ロボット手術がもたらす倫理的な問いを深く掘り下げている。その中心にあるのが、医療における責任の所在という問題である。もし「ミカエル」が予期せぬ動作を起こし、患者に損害を与えた場合、その責任は執刀医にあるのか、ロボットを開発したメーカーにあるのか、あるいは病院の管理者にあるのか。西條が「ミカエルは偽物だ」とジャーナリストに追及される場面は、この責任の曖昧さが、いかに医師個人を追い詰めるかを示している。技術が高度化・複雑化し、ブラックボックス化するほど、この問題は深刻になる。2, 7
さらに、テクノロジーが介在することによる医療の非人間化への懸念も、本作が鋭く指摘する点だ。西條は当初、モニター越しの映像とデータに集中するあまり、目の前の患者の全体像を見失いがちである。効率と精度を追求するあまり、患者とのコミュニケーションや精神的なケアが疎かになる危険性がある。これは、Ⅶ棚(医療制度)で論じられるような、効率性を重視する現代医療システム全体の課題とも共鳴する。一方で、真木医師は患者やその家族との対話を重視し、全人的な医療を実践しようと試みる。彼の姿勢は、どれほど技術が進歩しても、医療の根幹には人間と人間の信頼関係が不可欠であることを思い出させる。
医療とは、単に病気を治すことではない。病に苦しむ人間を支え、その人生に寄り添うことである。
この命題は、本書全体を貫く通奏低音である。手術支援ロボットは、あくまで人間の医師の能力を拡張する「道具」であり、それ自体が目的となってはならない。テクノロジーの力を借りながらも、最終的な意思決定を行い、患者に対する全責任を負うのは人間であるべきだ。この人間中心の原則をいかにして守るか。それは、Ⅷ棚(哲学)で探求されるような、技術と人間の共存をめぐる普遍的な倫理的課題と言えるだろう。『ミカエルの鼓動』は、フィクションという形式を通じて、この難問を私たちの前に提示しているのである。
柚月裕子の『ミカエルの鼓動』は、手術支援ロボットという具体的なテーマを通して、テクノロジーが進化する時代における医療の未来像を鮮やかに描き出した。物語は、「神の手」を持つベテラン外科医と「機械の手」を信じる若き外科医の対立という構図から始まるが、最終的には両者の融和と協働のうちに、一つの希望を見出す。それは、人間の知恵と経験が、テクノロジーの精密さと効率性を正しく導くことで、これまでにない高次の医療が実現可能になるという可能性である。
しかし、本書は安易な技術礼賛に陥ることはない。むしろ、コスト、責任の所在、非人間化といったロボット手術に潜む課題を直視し、その光と影の両面を公平に描き出す。フィクションならではの劇的な展開の中に、現代医療が抱えるリアルなジレンマが織り込まれているのだ。この物語は、単なるエンターテインメントに留まらず、医療従事者、患者、そして社会全体に対して、重要な問いを投げかけている。
我々は、テクノロジーに何を委ね、何を人間の手に留保すべきなのか。そして、いかにして技術を「人間化」し、真に患者のためになる医療を実現していくのか。
『ミカエルの鼓動』は、その答えを明示しない。むしろ、この開かれた問いこそが、本作が読者に与える最大の贈り物である。手術支援ロボットの鼓動が刻む未来のリズムの中で、私たちは人間とは何か、そして命とは何かという根源的な問いに、再び向き合うことを迫られる。それは、テクノロジーがどれだけ進化しようとも、決して忘れてはならない医療の原点なのである。