― 吉森保『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』を読む ―

オートファジー研究の権威が、老化を多層的に調整可能な現象として描く。細胞、免疫、個体レベルでの介入は、やがて「老いない」未来を実現するのか、科学的現状を検証する。
オートファジー研究の世界的権威である吉森保氏が、老化研究の複雑な全体像を一般向けに解き明かしたのが本書『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』である。専門家による解説書でありながら、そのタイトルは示唆に富み、老化という現象に対する我々の固定観念を揺さぶる。本書は、単一の原因で進行する不可逆的なプロセスとしてではなく、多層的かつ調整可能な生命現象として老化を捉え直すことを提案する。1
老化は、様々な階層で起きる現象が複雑に絡み合った結果であり、それぞれの階層で介入し、調整できる可能性を秘めている。
著:吉森 保|邦題:『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』|出版社:日経BP|邦訳初版:2022年
本書の著者、吉森氏の専門分野であるオートファジーは、老化を理解する上で中心的な役割を担う。オートファジーとは、細胞が自らの内部にある不要なタンパク質や古くなった細胞小器官(ミトコンドリアなど)を分解し、再利用するリサイクルシステムである。この精巧な仕組みは、細胞内の品質管理を担い、恒常性を維持するために不可欠である。2
しかし、加齢とともにオートファジーの機能は低下していく。その結果、細胞内には分解されるべき"ゴミ"が蓄積し、細胞の機能不全を引き起こす。この機能低下が、アルツハイマー病などの神経変性疾患や、がん、心血管疾患といった多くの老化関連疾患の根底にあると考えられている。本書は、この細胞レベルでのリサイクルシステムの破綻を、老化の根源的なメカニズムの一つとして明確に位置づけている。
老化のもう一つの重要な柱として本書が取り上げるのが、細胞老化(セネッセンス)である。これは、細胞が分裂を永久に停止する現象を指す。かつてはがん化を防ぐための安全装置と考えられていたが、近年の研究でその認識は大きく変わった。分裂を停止した老化細胞は、ただ静かに存在するのではない。SASP(老化関連分泌現象)と呼ばれる多種多様な炎症性物質を放出し、周囲の組織に慢性的な炎症を引き起こすのである。3
この振る舞いから、老化細胞は「ゾンビ細胞」とも呼ばれる。SASPは、周囲の正常な細胞まで老化させ、組織の機能低下やがん化を促進する。体内に蓄積した老化細胞を除去する「セノリティクス」と呼ばれる薬剤の開発が進められており、老化介入の有望な戦略として期待されているが、その安全性や有効性についてはまだ多くの検証が必要である。6
個体レベルでの老化現象として、免疫系の老化(免疫老化)も深刻な問題である。加齢に伴い、新しいT細胞を生み出す胸腺が萎縮し、未知の病原体に対応する能力が低下する。一方で、体全体では弱い炎症が持続する「炎症老化(Inflammaging)」が進行し、これが多くの老化関連疾患のリスクを高める。4
こうした老化現象への介入策として注目を集めるのが、NMN(ニコチンアミド・モノヌクレオチド)のようなNAD+前駆体である。NAD+はエネルギー産生やDNA修復に必須の補酵素であり、加齢で減少することが知られている。NMNの摂取によりNAD+レベルを回復させるというアプローチは合理的だが、本書は熱狂から一歩引いた冷静な視点を提示する。動物実験での有望な結果に対し、ヒトでの長期的な有効性や安全性のエビデンスはまだ限定的であり、今後の厳密な臨床試験の結果が待たれる状況であると指摘している。1
本書が提示する「多層的に調整可能な現象」としての老化という視点は、他の主要な老化理論とどのように関係するのだろうか。例えば、デビッド・シンクレアが提唱する「老化の情報理論」は、老化の根本原因をエピゲノム(DNAの使われ方を制御する情報)の乱れにあるとする。5
これら二つの視点は、対立するものではなく、相互補完的な関係にあると解釈できるかもしれない。シンクレアの言う「情報の乱れ」が上流の根本原因であり、その結果として、本書が詳述するオートファジーの機能不全、細胞老化、免疫老化といった具体的な「現象」が下流で引き起こされる、という階層構造モデルである。エピゲノムという情報の劣化が、細胞のリサイクルシステムを故障させ、ゾンビ細胞を生み出し、免疫システムを狂わせる。この統合的な視点は、老化という複雑なシステムを理解するための、より解像度の高い地図を与えてくれる可能性がある。
本書『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』は、老化を単一の運命ではなく、介入可能な複数のメカニズムの集合体として描き出した。オートファジーの活性化、老化細胞の除去、免疫機能の改善といった個別の戦略は、確かに科学的な進展を見せている。短命魚キリフィッシュを用いた研究なども、老化の速度を制御できる可能性を示唆している。7
しかし、これらの介入を統合し、ヒトという複雑なシステム全体の健康寿命を安全かつ効果的に延伸する道のりは、まだ始まったばかりである。私たちは、本書が示すように「意外に早く」老いから解放されるのか、それとも、老化という生命の根源的なプログラムの深淵を、まだ覗き込み始めたに過ぎないのだろうか。その答えは、これからの科学の進展の中にしかない。