Ⅷ-03Ⅷ|医療の思想

死を「選ぶ」ことは許されるか

― 児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』を読む ―

読了 約6分
安楽死が合法の国で起こっていること 表紙
取り上げた書籍『安楽死が合法の国で起こっていること』児玉真美

安楽死が合法化された国々で何が起きているのか。「死の自己決定権」の理想と現実のギャップを検証し、「良き死」とは何かを問う。

現代医療は、かつては不治とされた病を克服し、多くの人々の寿命を延ばしてきた。しかしその一方で、私たちは「いかに死ぬか」という問いに直面させられている。特に、耐えがたい苦痛からの解放を求め、自らの意思で死を選択する「安楽死」や「医師ほう助自殺」をめぐる議論は、世界中で絶えず続いている。児玉真美の『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書、2023年)は、安楽死が合法化された国々の実態を丹念に取材し、その理想と現実のギャップを浮き彫りにする一冊である。本書は、死の自己決定という権利が、社会の中でどのように機能し、どのような課題を生み出しているのかを冷静に検証し、私たちに「死を選ぶ」ことの真の意味を問いかける。

安楽死が合法化されれば、本当に個人の自律的な選択が尊重され、苦痛から解放される社会が実現するのだろうか。あるいは、それは意図せざる結果を招き、より脆弱な立場の人々を追い詰めることにはならないだろうか。

本書は、オランダ、ベルギー、カナダといった国々の事例を通じて、この複雑な問いに多角的な視点から光を当てる。本稿では、本書の議論を追いながら、安楽死をめぐる哲学的・倫理的な論点を掘り下げ、現代医療が直面する根源的な課題を考察していく。

著:児玉真美|『安楽死が合法の国で起こっていること』|ISBN:9784480075772

Ⅰ|すべり坂の現実――対象者の拡大という懸念

安楽死の議論において、常に懸念されてきたのが「すべり坂(slippery slope)」現象である。これは、一度合法化の扉を開くと、当初は厳格に定められていたはずの対象者や条件が、なし崩し的に拡大していく危険性を指す言葉である1。本書が示すオランダの事例は、この懸念が現実のものであることを示唆している。オランダでは2002年に安楽死が合法化されたが、当初は末期がんで耐えがたい肉体的苦痛に苛まれる成人に限定されていた。しかし、時を経るにつれて、その対象は精神疾患を持つ患者、認知症の高齢者、そして複数の疾患を抱える高齢者へと拡大していった。

ベルギーでも同様の傾向が見られる2。本書によれば、そこでは「治療に反応しない抑うつ」といった精神的な苦痛も安楽死の理由として認められるケースが増えているという。こうした対象者の拡大は、「個人の苦痛」を主観的なものとして捉え、その解放を最優先する思想に基づいている。しかしそれは同時に、社会が本来提供すべき支援やケアの欠如を、個人の「死の選択」に転嫁しているのではないかという深刻な問いを投げかける。すべり坂の現実は、自己決定という理念が、社会的な文脈から切り離されて語られることの危うさを示していると言えるだろう。

Ⅱ|自己決定権の神話――本当に「自由な選択」は可能か

安楽死を擁護する議論の中心には、個人の「自己決定権」という概念が存在する。自らの人生の終え方は、他者から強制されるべきではなく、個人が自由に決めるべきだという考え方である3。この権利は、近代社会における個人の尊厳の根幹をなすものとして、広く受け入れられている。しかし本書は、死を選ぶという決定が、果たして本当に真空状態での「自由な選択」でありうるのか、と鋭く問う。

例えば、十分な緩和ケアや在宅医療の選択肢がない状況で、患者が「家族に迷惑をかけたくない」という思いから安楽死を選ぶとしたら、それは真に自律的な決定と言えるだろうか。あるいは、周囲の医療者や家族からの無言の圧力(プレッシャー)を感じていないと断言できるだろうか。本書で紹介される事例は、安楽死の選択が、経済的な不安、社会的孤立、介護負担への懸念といった、極めて社会的な要因に強く影響されていることを示している。自己決定権を絶対視する議論は、こうした個人の選択を規定する社会構造の力学を見過ごす危険性をはらんでいる。それは、本来社会が連帯して負うべき責任を、個人の選択という問題に矮小化してしまうことにつながりかねない。

Ⅲ|障害と生命――「生きる価値」を誰が決めるのか

本書が特に強く警鐘を鳴らすのが、安楽死の議論が障害を持つ人々に与える影響である。安楽死の対象が拡大し、「質の低い生」からの解放が正当化される風潮は、障害を持つ人々の生を「生きるに値しない」と見なす差別的なメッセージを発する危険性を孕んでいる4 5。カナダでは、安楽死の要件から「死が合理的に予見可能であること」という項目が削除された結果、障害を理由に安楽死を申請する人々が増加しているという。

障害者権利擁護団体は、これは選択の自由の問題ではなく、社会が障害を持つ人々に対して適切な支援やインクルーシブな環境を提供できていないことの証左であると批判している。彼らにとって、安楽死の合法化は、生きるための支援を求める声を封じ込め、「死」という安易な解決策を提示する社会からの圧力に他ならない。この問題は、「健康」とは何か(Ⅷ-01)、そして老化は「病気」なのか(Ⅷ-02)といった、より根源的な問いともつながっている。ある特定の状態を「耐えがたい苦痛」と定義し、そこからの離脱を認めることは、その状態にある人々の生の価値を社会的に格下げすることと表裏一体なのである。

Ⅳ|死ねない時代との接続――AIに看取られる未来の前に

Ⅶ-04で論じた奥真也『AIに看取られる日』は、テクノロジーの進歩によって「死ねない時代」が到来する可能性を描き出した。医療技術が生命を維持し続けることを可能にする一方で、私たちは自らの意思で死ぬ権利をいかに考えるべきか。この問いは、児玉が描く安楽死合法化国の現実と響き合う。AIによる看取りが、孤独死の解決策として提示されるように、安楽死もまた、終末期医療における苦痛や社会的コストに対する一つの「解決策」として語られることがある。

しかし、本書が明らかにするのは、その「解決策」がいかに多くの倫理的ジレンマを抱えているかという事実である。テクノロジーが死の瞬間を管理し、個人の選択が法的に制度化される未来において、私たちは「良き死」とは何かを改めて問わなければならない。それは単に苦痛がないことだろうか。あるいは、最後まで尊厳が保たれることだろうか。リタ・シャロンが提唱するように、医療が個人の「物語」に耳を傾けること(Ⅷ-04)の重要性は、まさにこの文脈で再認識されるべきである。安楽死をめぐる議論は、単なる制度設計の問題ではなく、私たちがどのような社会で生き、そして死にたいのかという、価値観そのものを問うているのである。

結び

児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』は、安楽死という複雑なテーマに対して、安易な賛成や反対の立場を取ることを読者に許さない。本書が描き出すのは、理想化された「死の権利」の裏側で進行する、予期せぬ現実の数々である。すべり坂現象、社会的圧力に歪められる自己決定、そして障害者への差別的な眼差し。これらの問題は、安楽死が単なる個人の選択の問題ではなく、社会全体のあり方と深く結びついていることを示している。

死を「選ぶ」ことは許されるのか。この問いに、唯一の正解はない。しかし、本書を読むことで、私たちはこの問いがいかに重く、そして避けては通れないものであるかを痛感させられる。医療の目的(Ⅷ-05)が生命の延長だけにあるのではないとしたら、私たちは苦痛や尊厳、そして生の価値について、より深く、そして誠実に議論を重ねていく必要があるだろう。本書は、そのための不可欠な視点を提供してくれる、現代の必読書である。

参考文献

  1. 1.Lewis, P. (2007). The empirical slippery slope from voluntary to non-voluntary euthanasia. *Journal of Law, Medicine & Ethics*, 35(1), 197-210.
  2. 2.Lerner, B. H., & Caplan, A. L. (2015). Euthanasia in Belgium and the Netherlands: on a slippery slope?. *JAMA internal medicine*, 175(10), 1640-1641.
  3. 3.安楽死と自己決定権. 創価大学.
  4. 4.Disability‐based arguments against assisted dying laws. (2022). *Bioethics*, 36(7), 746-756.
  5. 5.Disability is not a reason to sanction medically assisted dying – UN experts. (2021). OHCHR.
  6. 6.奥真也. AIに看取られる日. 中央公論新社. 2022.
  7. 7.戸田山和久. 健康の哲学. 筑摩書房. 2022.
  8. 8.リタ・シャロン. ナラティブ・メディスン. 医学書院. 2019.