Ⅶ-03Ⅶ|医療制度

国民皆保険は守れるのか

― 島崎謙治『日本の医療 増補改訂版』を読む ―

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日本の医療 増補改訂版 表紙
取り上げた書籍『日本の医療 増補改訂版』島崎謙治

世界に冠たる国民皆保険制度は、なぜ揺らいでいるのか。歴史分析と国際比較で制度の構造と持続可能性を解明する。

日本の医療制度、特にその根幹をなす国民皆保険は、世界に冠たる制度として長らく評価されてきた。しかし、少子高齢化の急速な進展、医療技術の高度化、そして経済の長期停滞という複合的な要因が絡み合い、その持続可能性は今、深刻な岐路に立たされている。この根源的な問いに対し、歴史的視点と国際比較を駆使して構造的課題を白日の下に晒すのが、島崎謙治氏の『日本の医療 増補改訂版』である。

国民皆保険は、歴史的な偶然と政治的な妥協の産物であった。

著:島崎謙治|『日本の医療 増補改訂版 ― 制度と政策』|出版社:東京大学出版会|初版:2020年

Ⅰ|国民皆保険の「奇跡」とその構造

戦後日本の急速な経済成長と並行して実現された国民皆保険は、誰もが、いつでも、どこでも、比較的安価に医療サービスを受けられる体制を構築した1。島崎氏は、この「奇跡」とも言える制度が、決して一枚岩の理念に基づいて設計されたものではなく、歴史的な偶然と政治的な妥協の産物であったことを明らかにしている。

日本の医療制度は、職域ごとに分立した「被用者保険」と、市町村が運営する「国民健康保険」という二本立ての構造を基本とする。さらに、開業医を中心とした民間医療機関が主力を担い、患者はどの医療機関を訪れるかを自由に選べる「フリーアクセス」が保障されている。

この自由度の高さは、患者満足度の向上に大きく貢献してきた一方で、制度全体の総合性や整合性を欠く原因ともなってきた。Ⅶ-01で論じられたように、日本の医療が抱える多岐にわたる問題の根源をたどると、しばしばこの制度設計の妙と、それがもたらす歪みに行き着くのだ。

Ⅱ|揺らぐ制度の持続可能性

かつて世界から称賛された国民皆保険制度も、今やその土台が大きく揺らいでいる。最大の要因は、世界でも類を見ないスピードで進行する少子高齢化である。総人口に占める65歳以上人口の割合は2025年に30%を超えると予測されている2

国民医療費は2021年度に44.2兆円と過去最高を更新し、国の予算を圧迫し続けている3。この状況は、まさにⅦ-02で描かれた、担い手不足と財源不足による「病院がなくなる日」という未来図を現実のものとしかねない。

島崎氏は、こうした危機的状況をグローバルな文脈の中に位置づける。ドイツでは「疾病金庫」間の競争を促しつつリスク構造調整基金を通じて公平性を担保する改革が進められた。しかし、日本の医療制度が独自の構造を持つ以上、海外の成功事例を単純に模倣するだけでは、問題は解決しないのである。

Ⅲ|改革への処方箋:制度の再設計は可能か

では、日本の医療制度を持続可能なものとして再設計するために、どのような処方箋が考えられるのか。中心的な柱の一つが、診療報酬制度の改革である。現在の出来高払い方式は、医療行為の量が増えるほど医療機関の収入が増えるため、過剰診療を誘発しやすい。

本書では、疾患ごとの包括的な支払いや、治療の成果に基づいて報酬を支払う「価値に基づく医療(Value-Based Medicine)」への転換の重要性が示唆されている。この考え方は、Ⅶ-04で論じられるAI医療の導入とも密接に関連する4

もう一つの柱は、医療提供体制そのものの改革である。従来の病院完結型医療モデルは限界を迎えつつあり、地域の特性に応じた「地域完結型」の医療提供体制が必要とされている。しかし、こうした制度改革を実現する上で、最大の障壁となるのが「負担」をめぐる国民的合意の形成である。

結び

国民皆保険は守れるのか。島崎氏の『日本の医療』を読了した我々がたどり着くのは、この問いに対する単純な「イエス」でも「ノー」でもない。むしろ、この問いそのものが、解決策を専門家や政府に委ねてしまう受け身の姿勢を内包しているのではないか、という厳しい自己省察である。

医療制度改革をめぐる議論が袋小路に陥っているとすれば、その原因は、改革の技術的な難しさ以上に、改革の方向性や理念、価値をめぐる社会的な合意形成が著しく困難になっているからにほかならない。

国民皆保険の未来は、専門家による精緻な制度設計図の中にあるのではない。それは、医療のあり方について、私たち国民が交わす、痛みを伴う対話の先にしか描かれない。国民皆保険を守れるかどうかは、私たち自身の選択と覚悟にかかっているのである。

参考文献

  1. 1.World Health Organization. The World Health Report 2000 - Health systems: improving performance. 2000.
  2. 2.総務省統計局. 人口推計(2024年10月1日現在). 2025.
  3. 3.厚生労働省. 令和4年度 国民医療費の概況. 2024.
  4. 4.厚生労働省. 新たな地域医療構想の検討状況について. 2024.
  5. 5.島崎謙治. 日本の医療 増補改訂版 ― 制度と政策. 東京大学出版会. 2020.