― 木下翔太郎『現代日本の医療問題』を読む ―

医師不足、医療費増大、医療DXの遅れ、美容医療、終末期医療――元内閣府官僚にして医学研究者が、日本の医療の「現在地」をデータと構造分析で描き出す。
現代日本の医療が直面する複雑で多面的な課題を、一人の論客が鮮やかに解き明かした。元内閣府官僚にして現役の医学研究者である木下翔太郎氏による『現代日本の医療問題』は、医師不足、医療費増大、医療DXの遅れから、美容医療や終末期医療といった現代的なテーマまでを網羅し、日本の医療の「現在地」を冷静に描き出す一冊である。
日本の医療は、世界に冠たる国民皆保険制度の上に成り立っている。しかし、その「当たり前」が今、静かに蝕まれている。
著:木下翔太郎|『現代日本の医療問題』|出版社:星海社新書|初版:2025年
日本の国民皆保険制度は、長らく世界に冠たる成功モデルとされてきた。誰もが、いつでも、どこでも、安価に質の高い医療を受けられる。この「当たり前」が、今、静かに蝕まれている。本書がまず警鐘を鳴らすのは、医療費の際限なき増大と、それを支える社会構造の脆弱性である。
厚生労働省の発表によれば、2022年度の概算医療費は46.0兆円に達し、前年度から1.8兆円もの増加を見せた1。高齢化の進展に伴い、医療需要は今後も増え続けることが確実視されており、このままでは制度の持続可能性が根本から揺らぎかねない。木下氏は、この問題を単なる財政論に矮小化することなく、人口動態と疾病構造の変化という、より大きな文脈の中に位置づける。
団塊の世代がすべて75歳以上の後期高齢者となる「2025年問題」は目前に迫り、医療・介護需要の爆発的な増加は避けられない。Ⅶ-03で詳述される国民皆保険制度の構造的課題と合わせ鏡のように、本書はマクロなデータが個人の生活に直結している現実を突きつける。
マクロな制度疲労が進行する一方で、医療の最前線である「現場」もまた、深刻な課題に直面している。その一つが、本書が鋭く指摘する「医師の偏在」である。必要な数の医師が、必要な場所や分野に存在しないという問題は、医療の質の低下と地域間格差を助長し、現場の医師たちを過重労働へと追い込んでいる。
特に、外科や産科、救急といった、厳しい労働環境を敬遠されがちな診療科や、へき地・離島における医師不足は深刻さを増すばかりである2。この問題は、Ⅶ-02『病院がなくなる日』で描かれるような、地域医療の崩壊という悪夢を現実のものとしかねない。
さらに問題を複雑にしているのが、医師の働き方改革である。単に労働時間を制限するだけでは、かえって医療提供体制の縮小を招きかねないというジレンマを、本書は冷静に指摘する。現場の医師一人ひとりの人権を守りながら、いかにして持続可能な医療体制を維持していくのか。その問いに対する特効薬は、まだ見つかっていない。
こうした山積する課題への切り札として期待されているのが、医療分野のデジタルトランスフォーメーション(DX)である。マイナンバーカードと健康保険証を一体化させた「マイナ保険証」の導入、オンライン診療の普及、そして全国の医療機関での電子カルテ情報の共有。これらが実現すれば、医療は劇的に効率化されるはずだった。
しかし、現実は政府の描くバラ色の日々とは程遠い。マイナ保険証はトラブルが頻発し、オンライン診療の利用率も限定的である3。電子カルテの普及率も、特に小規模な診療所では伸び悩んでいる4。
木下氏は、医療DXの可能性を認めつつも、その「影」の部分から目を逸らさない。デジタル技術の導入が、かえって新たな格差(デジタルデバイド)を生み出す危険性である。Ⅶ-04で論じられるAI医療の未来像もまた、こうした格差の問題と無縁ではない。技術の進歩が、結果として「誰一人取り残さない」という医療の基本理念を損なうことがあってはならない。
本書の議論は、制度や技術といった外面的な問題から、より本質的な「医療とは何か」という問いへと深化していく。超高齢社会が突きつける最も根源的な問い、それは「死といかに向き合うか」である。
かつて医療の主目的が「治す」ことであった時代は終わりを告げ、人生の最終段階をいかに穏やかに、人間らしく過ごすかというQOL(生活の質)を重視する「支える医療」への転換が迫られている。Ⅶ-05『「健康」から生活をまもる』が警鐘を鳴らすように、過剰な医療化は、必ずしも人を幸せにするとは限らない。
木下氏は、終末期医療におけるリビング・ウィルや事前指示書の重要性を説きながらも、最終的には本人と家族、そして医療者が対話を重ね、その人にとっての最善を模索していくプロセスの重要性を強調する。
『現代日本の医療問題』は、日本の医療が抱える課題の全体像を、構造的に、そして極めて冷静に描き出した労作である。本書を読み終えたとき、読者の手元に残るのは、明快な答えではなく、むしろ「日本の医療はいま、どこにいるのか」という、より重みを増した問いそのものだろう。
改革には痛みが伴う。しかし、本当の痛みは、改革を怠り、見て見ぬふりをし続けたその先に待っているのかもしれない。
本書は、特定のヒーローや悪役を名指しすることはない。ただ、複雑に絡み合った問題の構造を丹念に解きほぐし、私たち一人ひとりが思考するための「地図」を提示してくれる。この地図を手に、どこへ向かうのか。その選択は、今、私たち自身に委ねられている。