― ジェニファー・ダウドナ『クリスパー CRISPR』を読む ―

CRISPR-Cas9の共同発明者が語る、細菌の免疫系から生まれた究極の遺伝子編集技術。その驚異的な可能性と、人類が直面する倫理的課題を科学的に読み解く。
Ⅴ棚(遺伝子)を開く。
2012年、ジェニファー・ダウドナとエマニュエル・シャルパンティエは、細菌がウイルスから身を守るために進化させた免疫機構を、あらゆる生物のDNAを自在に書き換える道具へと変えた。CRISPR-Cas9と名づけられたその技術は、生命科学の歴史を二分する転換点となった。
CRISPRは、生命の設計図を人類が初めて自らの手で書き換えることを可能にした。その力は、進化そのものを制御する力である。
著:ジェニファー・ダウドナ、サミュエル・スターンバーグ|原題:A Crack in Creation: Gene Editing and the Unthinkable Power to Control Evolution|邦題:『クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見』|出版社:文藝春秋(文春文庫)|邦訳初版:2017年(文庫版2021年)
CRISPRの物語は、ヨーグルト工場から始まる。2007年、フランスの食品企業ダニスコの研究者たちは、乳酸菌がウイルス(バクテリオファージ)の攻撃を生き延びた後、そのウイルスのDNA断片を自らのゲノムに取り込むことを発見した。この「免疫記憶」こそがCRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)の正体だった[1]。
ダウドナがCRISPRに出会ったのは2006年、UCバークレーの同僚ジリアン・バンフィールドからの一本の電話がきっかけだった。バンフィールドは環境微生物学者で、細菌のゲノムに見られる奇妙な反復配列の機能を解明したいと考えていた。RNA構造の専門家であるダウドナにとって、それは知的好奇心を刺激する完璧な謎だった。
研究が進むにつれ、CRISPRシステムの全貌が明らかになっていく。細菌はウイルスのDNA断片をCRISPR配列に保存し、再感染時にはそれをRNA(crRNA)に転写してCasタンパク質と複合体を形成する。このRNA-タンパク質複合体が、侵入してきたウイルスDNAを認識し、切断して無力化する。いわば、細菌は30億年以上の進化を経て、独自の「適応免疫システム」を獲得していたのである。
2011年、ダウドナはフランスの微生物学者エマニュエル・シャルパンティエと出会う。シャルパンティエは化膿レンサ球菌のCRISPRシステムを研究しており、そこにはtracrRNA(トランス活性化crRNA)という未知のRNA分子が関与していた。二人の共同研究は、2012年の画期的な論文へと結実する[2]。
彼女たちが明らかにしたメカニズムはこうだ。Cas9タンパク質は、crRNAとtracrRNAの二本のRNAに導かれて標的DNAに結合する。標的配列の隣にはPAM(Protospacer Adjacent Motif)と呼ばれる短い配列(NGG)が必要で、これがCas9の「着陸シグナル」として機能する。Cas9はHNHドメインで相補鎖を、RuvCドメインで非相補鎖を切断し、二本鎖切断(DSB)を生じさせる。
決定的な発見は、crRNAとtracrRNAを一本の人工RNA(sgRNA: single guide RNA)に融合できることだった。つまり、sgRNAの配列を変えるだけで、ゲノム上の任意の場所をCas9に切断させることが可能になった。従来のZFNやTALENといった遺伝子編集技術が、標的ごとにタンパク質を一から設計する必要があったのに対し、CRISPRではわずか20塩基のRNA配列を変えるだけでよい。この圧倒的な簡便さが、遺伝子編集を一部の専門家の独占物から、世界中の研究室で使える汎用ツールへと変貌させた。
ダウドナとスターンバーグが本書を執筆した2017年時点では、CRISPRの臨床応用はまだ夢物語に近かった。しかし2023年12月、FDAは史上初のCRISPR治療薬Casgevy(エクサガムグロジーン・オートテムセル)を承認した[3]。鎌状赤血球症とβサラセミアという二つの遺伝性血液疾患に対する治療薬である。
Casgevyのメカニズムは精巧だ。患者自身の造血幹細胞を採取し、体外でCRISPR-Cas9を用いてBCL11A遺伝子のエンハンサー領域を編集する。BCL11Aは胎児型ヘモグロビン(HbF)の産生を抑制するスイッチであり、これを不活性化することでHbFが再び産生される。HbFは鎌状化を防ぐため、患者の症状が劇的に改善する。臨床試験では、治療を受けた患者の97%以上が重篤な血管閉塞発作から解放された[4]。
2025年には患者登録数が前年比で約3倍に増加し、CRISPR Therapeuticsは適応拡大に向けた複数の臨床試験を進めている[5]。ダウドナが本書で予見した「遺伝子治療の夜明け」は、いま現実のものとなりつつある。ただし、Casgevyの治療費は一人あたり約220万ドル(約3億3000万円)と報告されており、アクセスの公平性という新たな課題も浮上している。
本書の後半で、ダウドナは繰り返し見る悪夢について語る。津波の夢だ。CRISPRという巨大な波が押し寄せ、すべてを変えてしまう。その不安は2018年11月、現実のものとなった。
中国の生物物理学者・賀建奎(He Jiankui)が、CRISPR-Cas9を用いてヒト胚のCCR5遺伝子を編集し、HIV耐性を持つとされる双子の女児を誕生させたと発表した[6]。世界初の「デザイナーベビー」である。科学界は激震した。
問題は複数の層に及ぶ。第一に、生殖系列(germline)の編集は次世代以降に永続的に受け継がれる。体細胞編集(Casgevyのような治療)が本人限りであるのに対し、生殖系列の変更は人類の遺伝子プールそのものを改変する。第二に、CCR5の変異はHIV耐性をもたらす一方で、西ナイルウイルスへの感受性を高めるなど、予期せぬ影響がある。第三に、賀の実験はインフォームドコンセントや倫理審査の手続きを著しく逸脱していた。
ダウドナは本書の中で、バイオテック起業家が「強化された赤ちゃん」の作成を提案してきた場面を回想し、科学者が公的議論に積極的に参加する倫理的責務を強調する。彼女が主導した2015年のナパバレー会議と第1回ヒト遺伝子編集国際サミットは、核兵器開発後のアシロマ会議になぞらえられる。技術の進歩が倫理的議論を追い越してはならない――それがダウドナの一貫したメッセージである。
ダウドナは本書のエピローグで、CRISPRが好奇心駆動型の基礎研究から生まれたことを強調する。細菌の免疫系という一見「役に立たない」研究が、人類史上最も強力な遺伝子編集ツールを生んだ。この事実は、基礎科学への投資がいかに予測不能な形で社会に還元されるかを示している。
しかし同時に、CRISPRは人類に前例のない選択を迫る。遺伝病を根絶する力は、「望ましい」形質を選別する力でもある。マラリアを媒介する蚊を遺伝子ドライブで絶滅させる力は、生態系を不可逆的に改変する力でもある。
生命の設計図を書き換える力を手にした人類は、何を書き換え、何を書き換えないのか。その判断を科学者だけに委ねることはできない。ダウドナが本書で繰り返し訴えるように、市民社会全体がこの議論に参加しなければならない。Ⅴ棚「遺伝子」は、この問いから始まる。