Ⅸ-10Ⅸ|未来技術

ピーター2.0:サイボーグになった科学者が問う、人間とテクノロジーの未来

― ピーター・スコット-モーガン『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン』を読む ―

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NEO HUMAN ネオ・ヒューマン ― 究極の自由を得る未来 表紙
取り上げた書籍『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン ― 究極の自由を得る未来』ピーター・スコット-モーガン

ALSと診断されたロボット工学者が、自らをサイボーグ化することで運命に抗う。ピーター・スコット-モーガンの実話は、人間拡張とテクノロジーの未来を問いかける。これは単なる闘病記ではなく、愛と科学が融合した壮大な実験の記録である。

もし、不治の病で余命宣告を受け、身体の自由が完全に失われるとしたら、あなたはその運命を受け入れるだろうか。ロボット工学の第一人者であるピーター・スコット-モーガン博士は、その問いに「ノー」と答えた。2017年に全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された彼は、悲劇の主人公になることを拒絶し、自らの身体をAIと最新テクノロジーで置き換えることで「世界初の完全なサイボーグ」になることを決意する。本書『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン』は、その壮絶な挑戦の記録である。

これは単なる闘病記ではない。スコット-モーガン博士の物語は、人間拡張、トランスヒューマニズムといった現代思想の最前線を体現するものであり、「人間であること」そのものの定義を揺さぶる。テクノロジーは、失われた機能を取り戻すための「補綴」に留まるのか、それとも人間を生物学的な制約から解き放つ「アップグレード」への扉を開くのか。彼の挑戦は、私たち一人ひとりに、テクノロジーと人間の未来について根源的な問いを突きつけている。

著:ピーター・スコット-モーガン|原題:Peter 2.0: The Human Cyborg|邦題:『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン ― 究極の自由を得る未来』|出版社:東洋経済新報社|邦訳初版:2021年

Ⅰ|死の宣告から「ピーター2.0」へ

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、身体を動かすための神経系である運動ニューロンが選択的に変性・消失していく進行性の神経変性疾患である。症状は手足の痺れや筋力低下から始まり、やがて呼吸筋を含む全身の筋肉が麻痺し、自発呼吸すら困難になる。知覚や知能は正常に保たれることが多く、患者は明晰な意識を保ったまま、自らの身体という牢獄に閉じ込められていく。診断後の平均余命は2年から5年とされ、根本的な治療法はまだ確立されていない。

2017年、スコット-モーガン博士に下されたのも、この過酷な診断だった。しかし、世界的なロボット工学者である彼は、この運命を科学者として、そして一人の人間としてハックすることを決意する。彼は自らの状況を「解決すべき問題」と捉え、自身の身体と生命を壮大な実験の対象とした。それは、単に生き長らえる「サバイブ」ではなく、より豊かに生きる「スライブ(thrive)」を目指すという野心的なプロジェクト、「ピーター2.0」の幕開けだった。

「ピーター2.0」計画は、失われゆく身体機能を最先端のテクノロジーで置き換える、全身のサイボーグ化を意味する。食事のための胃ろう、排泄のための結腸瘻・膀胱瘻の造設、そして呼吸のための気管切開。これらは生命維持に不可欠なだけでなく、彼を感染症のリスクや不快感から解放し、「人間らしい」生活を維持するための戦略的な選択だった。さらに、彼は声帯を失う前に自らの声を大量にサンプリングし、AIによる音声合成でコミュニケーション能力を確保。視線入力技術と連動するリアルな3Dアバターを開発し、感情表現豊かな対話をも可能にした。これは、テクノロジーが単なる機能代替ではなく、アイデンティティの維持と拡張に貢献しうることを示している。

Ⅱ|人間と機械の融合:BCIというフロンティア

スコット-モーガン博士の挑戦を技術的に支える核心が、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)である。BCIは、脳波などの脳活動を検出し、その信号をコンピューターで解読して外部の機器を操作する技術だ。もともとは重度の運動機能障害を持つ患者のコミュニケーション支援などを目的に研究されてきたが、その応用範囲は人間拡張(ヒューマン・オーグメンテーション)の領域へと急速に拡大している。1

博士が活用する視線入力システムも、広義のBCIの一種と言える。眼球の動きをカメラで追跡し、スクリーン上の文字盤やコマンドを選択することで、彼は文章を書き、合成音声で会話し、車椅子を操作し、スマートホームを制御する。彼の脳が発した「意図」が、テクノロジーを介して物理世界に作用する。これは、脳と機械が直接的に結びつく未来の、まさに現在進行形の姿である。彼のシステムは、複数のAIアシスタントを統合し、文脈に応じた応答を予測・生成することで、コミュニケーションの速度と質を劇的に向上させている。

BCI研究の最前線では、イーロン・マスク氏が率いるNeuralink社などが、脳に微小な電極を埋め込む侵襲型BCIの開発を進めている。2 これが実現すれば、思考だけでより複雑で直感的なデバイス操作が可能になると期待される。スコット-モーガン博士の実践は、こうした未来技術のプロトタイプであり、BCIが失われた身体機能の回復(リストア)に留まらず、新たな能力の獲得(オーグメント)さえ可能にすることを示唆している。それは、Ⅱ棚で探求される「脳」の可塑性と、テクノロジーによるその拡張可能性を実証するものでもある。

Ⅲ|トランスヒューマニズムの問い:私たちは何者になるのか

スコット-モーガン博士の生き方は、テクノロジーを用いて人間の生物学的な制約を超えようとする思想「トランスヒューマニズム」のラディカルな実践と見なすことができる。トランスヒューマニストは、老化、病気、そして死といった根源的な苦しみを科学技術によって克服し、より高度な知性、強靭な身体、長い寿命を持つ「ポストヒューマン」への進化を目指す。博士の選択は、この思想が単なる思弁的な未来論ではなく、現実的な選択肢となりつつあることを示している。

テクノロジーによる人間強化は、ALSのような難病に苦しむ人々にとっては紛れもない希望の光である。しかし、その応用が健常者の能力向上にまで及ぶとき、複雑な倫理的問いが立ち上がる。例えば、BCIによって記憶力や認知能力を飛躍的に高めた「強化人間」と、そうでない人々の間に、埋めがたい格差が生まれるのではないか。3 身体や精神の根幹をテクノロジーに委ねることは、人間のアイデンティティや自律性をどう変容させるのか。Ⅵ棚で論じられる「痛み」や苦しみが人間性の重要な一部であるとすれば、それを技術的に消去することは、私たちをより豊かにするのだろうか、それとも貧しくするのだろうか。

スコット-モーガン博士の事例は、治療と強化の境界線を曖昧にする。彼は病気を克服するためにサイボーグ化の道を選んだが、その結果として、ある面では健常者を超える能力を手に入れた。彼の存在は、Ⅷ棚が扱う「哲学」的な問い、すなわち「人間とは何か」という定義そのものを、私たちに問い直させる。テクノロジーが進化すればするほど、私たちは自らの価値観や社会のあり方を根本から見直す必要に迫られるだろう。

結び

『NEO HUMAN』が読者の胸を打つのは、最先端テクノロジーの紹介以上に、その根底に流れる普遍的な愛の物語があるからだ。スコット-モーガン博士の挑戦は、彼の夫であるフランシスとの固い絆なしにはあり得なかった。フランシスは、博士の介護者であり、研究のパートナーであり、そして何よりも生涯の伴侶として、常に彼の傍らで支え続けた。博士がサイボーグ化によって維持したかったものの核心は、愛する人と共にあり続けるという、極めて人間的な願いだったのである。

テクノロジーは、それ自体が善でも悪でもない。それは人間の意図を増幅するツールである。スコット-モーガン博士は、テクノロジーを、絶望に抗い、愛を貫き、生きることを祝福するための手段として用いた。彼の物語は、テクノロジーが人間性を奪うのではなく、むしろ人間をより人間らしくするために使われうるという力強いメッセージを発している。

私は死ぬためにサイボーグになるのではない。繁栄するためにサイボーグになるのだ。
I’m not dying, I’m transforming.

ピーター・スコット-モーガン博士の旅はまだ終わらない。彼の存在そのものが、未来への問いを投げかけ続ける。人間とテクノロジーの究極の融合は、私たちをどこへ導くのか。Ⅸ棚の終わりに、私たちは再び開かれた地平の前に立つ。その未来を描くのは、テクノロジーそのものではなく、それをどう使い、何を目的とするのかという、私たち自身の選択なのである。

参考文献

  1. 1.Valeriani, D., Cinel, C., & Poli, R. Brain–Computer Interfaces for Human Augmentation. Brain Sciences. 2019.
  2. 2.Neuralink. Pioneering Brain Computer Interfaces. 2023.
  3. 3.Hildt, E. Brain-computer interfaces for cognitive enhancement: ethical considerations. PLoS biology. 2019.
  4. 4.The Scott-Morgan Foundation. Our Story. 2024.
  5. 5.Kurzweil, R. The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology. Viking. 2005.