― 脳からみた痛みの機序と治療戦略 ―
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国際疼痛学会の痛みの定義改訂と『痛覚変調性疼痛』という新概念を踏まえ、半場道子は慢性痛のメカニズムを脳科学の最前線から解説する。PIEZO受容体の発見、腸脳連関、そして集学的治療の新展開。
2020年、国際疼痛学会(IASP)は41年ぶりに痛みの定義を改訂した。
「痛みは、実際のまたは潜在的な組織損傷に関連する、あるいはそれに似た、不快な感覚的および情動的体験である」1。
半場道子は、この改訂の意味を問う。痛みはもはや組織損傷の結果ではない。脳が構成する体験そのものである。
著者:半場道子(Michiko Hanba)
タイトル:『慢性痛のサイエンス 第2版 脳からみた痛みの機序と治療戦略』
出版社:医学書院
初版:2018年(第2版:2023年)
ISBN:978-4-260-05076-0
従来、痛みは二つに分類されてきた。組織損傷による侵害受容性疼痛と、神経の損傷による神経障害性疼痛である。しかし、線維筋痛症や過敏性腸症候群のように、明らかな組織損傷も神経損傷もないのに激しい痛みを訴える患者が存在する。
2017年、IASPは第三の分類として痛覚変調性疼痛(nociplastic pain)を提唱した2。これは、末梢の入力ではなく、中枢神経系の痛み処理そのものが変調をきたした状態を指す。
半場はこの概念を「慢性痛理解のコペルニクス的転回」と位置づける。痛みの原因を末梢に探すのではなく、脳の情報処理の異常として捉え直す。これは、Ⅵ-01で熊澤が論じた中枢性感作の概念をさらに推し進めたものである。
2021年のノーベル生理学・医学賞は、Ardem PatapoutianによるPIEZO受容体の発見に贈られた3。PIEZOは機械的刺激を電気信号に変換するイオンチャネルであり、触覚・圧覚・固有感覚の基盤となる。
半場は、PIEZO受容体の発見が痛みの理解にもたらす意味を詳説する。PIEZO2は触覚だけでなく、アロディニア(通常は痛みを引き起こさない触覚刺激が痛みとして知覚される現象)にも関与している可能性がある4。
基礎研究の進展が臨床の痛みの理解をどう変えるか。半場はこの橋渡しを丁寧に行う。
本書の第2版で大幅に加筆されたのが、腸脳連関(gut-brain axis)と痛みの関係である。
腸内細菌叢は迷走神経を介して脳と双方向に情報を交換している。腸内細菌叢の異常(ディスバイオシス)は、全身性の炎症を惹起し、中枢神経系の痛み処理に影響を与える5。
過敏性腸症候群(IBS)や線維筋痛症の患者では、腸内細菌叢の多様性が低下していることが報告されている。半場は、腸脳連関が慢性痛の新たな治療標的となる可能性を論じる。プロバイオティクスや食事介入が痛みを軽減するという予備的なエビデンスも紹介される6。
これはⅢ棚(代謝)との重要な接続点である。腸内細菌・代謝・炎症・痛みは、一つの連環を形成している。
半場は、慢性痛の治療が単一の専門科では完結しないことを強調する。ペインクリニック、リハビリテーション、精神科、心療内科、そして看護・心理の連携による集学的疼痛治療(interdisciplinary pain management)が国際的な標準となりつつある7。
日本においても、2018年に厚生労働省が慢性痛対策の提言をまとめ、集学的アプローチの推進が謳われた。しかし、実際にこれを実践できる施設はまだ限られている。
半場は、慢性痛の治療が「痛みを消す」から「痛みと共に生きる力を育てる」へと転換すべきことを、科学的根拠をもって論じる。
半場道子は、慢性痛を「脳の病気」と断定したのではない。脳の視点から痛みを理解し直すことで、治療の新たな地平を開いた。
痛みの定義が変わった。痛みの理解が変わった。次に変わるべきは、痛みの治療である。
本書は、その変革のための科学的基盤を提供する。