Ⅱ-05Ⅱ|脳

アルツハイマーは逆転できるのか

― Dale Bredesen『アルツハイマー病 真実と終焉』を読む ―

読了 約8分
アルツハイマー病 真実と終焉 表紙
取り上げた書籍『アルツハイマー病 真実と終焉』Dale Bredesen

「アルツハイマー病は逆転できる」と主張するブレデセンの多因子介入論を、アミロイド仮説への批判と科学的論争の中から検証する。

アルツハイマー病は、一度診断されれば回復不能な死の宣告なのだろうか。記憶が、そして自己が、ゆっくりと失われていく過程をただ見守るしかないのだろうか。長年、医学界の常識は「イエス」であった。しかし、カリフォルニア大学の神経学者デール・ブレデセンは、その常識に真っ向から異を唱える。彼の著書『アルツハイマー病 真実と終焉』は、この絶望的な疾患に対する新たな希望の狼煙である。ブレデセンは、アルツハイマー病は予防・治療可能であり、多くの場合、認知機能の低下は逆転できると主張するのだ。本書が提示するのは、単一の原因を叩く従来の創薬アプローチとは全く異なる、複雑なシステム病としてのアルツハイマー病像とその治療戦略である。

アルツハイマー病は、アミロイドβという単一の悪役が引き起こす単純な物語ではない。それは、私たちの脳を守るための複雑な防御反応が、様々な要因によって裏目に出た結果生じる代謝性疾患である。

著:Dale Bredesen|原題:The End of Alzheimer's|邦題:『アルツハイマー病 真実と終焉』|出版社:ソシム|邦訳初版:2018年

Ⅰ|守護者か、それとも破壊者か

アルツハイマー病研究の歴史は、アミロイド仮説と共にあったと言っても過言ではない。この仮説は、患者の脳に蓄積するアミロイドβ(Aβ)というタンパク質が神経細胞を死滅させ、認知機能低下を引き起こす主犯であると見なす1。この仮説に基づき、製薬業界はAβを脳内から除去するための「魔法の弾丸」を求めて、莫大な資金と時間を投じてきた。しかし、その結果は惨憺たるものであった。Aβを除去する抗体医薬の臨床試験は、20年以上にわたり失敗の山を築き、有効性が認められた一部の薬剤でさえ、その効果は限定的で副作用のリスクも伴う2

ブレデセンは、この行き詰まりの根本原因は、Aβを「犯人」と見なすこと自体にあると指摘する。彼は、Aβを本来、炎症、病原体、毒素といった様々な脅威から脳を守るための自然免疫システムの一部として機能する「守護者」であると捉え直す。Aβは、抗菌ペプチドとしての性質を持ち、侵入してきた微生物を封じ込め、あるいは神経細胞が危機に瀕した際にシナプス(神経細胞の接続部)を刈り込むことで、エネルギー消費を抑え、細胞を守ろうとする防御反応の実行役だというのだ3。問題は、この防御反応が慢性的に、あるいは過剰に活性化し続けることにある。つまり、Aβの蓄積は原因ではなく、より上流にある根本的な問題(炎症、栄養不足、毒素曝露など)の結果なのである。Aβを除去するだけでは、火事を起こしている放火犯を無視して、煙だけを追い払おうとするようなものなのだ。

Ⅱ|病の「正体」を分類する

ブレデセンのモデルが画期的なのは、アルツハイマー病を単一の疾患としてではなく、根本原因の異なる複数のサブタイプに分類した点にある。彼は、患者の代謝プロファイルを詳細に分析することで、少なくとも3つの主要なタイプが存在することを見出した4

第一は1型「炎症性」で、「ホット」なタイプとも呼ばれる。これは、歯周病菌のような慢性感染、あるいはヘルペスウイルスなどの再活性化によって引き起こされる持続的な炎症反応が脳に波及するケースである。免疫システムが常に警戒態勢にあるため、防御反応としてAβが過剰に産生される。

第二は2型「萎縮性」で、「コールド」なタイプに分類される。これは、エストロゲンやテストステロンといった性ホルモン、あるいはビタミンD、BDNF(脳由来神経栄養因子)といった、神経細胞の維持と成長に不可欠な分子が不足することが原因である。脳が栄養不足に陥り、シナプス結合を維持できなくなった結果、細胞自体が「ダウンサイジング」を余儀なくされ、Aβがそのプロセスを促進してしまう。

第三は3型「毒素性」であり、「ヴァイル(vile)」、すなわち「不快な」タイプと名付けられている。これは、カビ毒(マイコトキシン)や、水銀・鉛などの重金属、あるいは大気汚染物質といった外来性の毒素に曝露することで引き起こされる。これらの毒素は神経系に直接的なダメージを与え、慢性的な防御反応と炎症を引き起こす。特に、他のタイプに比べて若年で発症する傾向があるのが特徴である。

これらのサブタイプは明確に分かれているわけではなく、しばしば重複する(1.5型:炎症と萎縮の混合など)。重要なのは、患者一人ひとりの病態が異なるため、画一的な治療法では効果が期待できず、原因に応じた個別化アプローチが不可欠であるという点である。

Ⅲ|「屋根の36の穴」を塞ぐ

もしアルツハイマー病が単一の原因によるものではないのなら、治療法もまた単一であってはならない。ブレデセンはこの考え方を、「屋根に開いた36の穴」という鮮やかなアナロジーで説明する。アルツハイマー病という建物の屋根には、遺伝的素因、炎症、インスリン抵抗性、ホルモン不足、栄養欠乏、毒素曝露など、少なくとも36個の穴が開いている。たった一つの穴を塞ぐ画期的なパッチ(例えばAβ除去薬)を開発したとしても、他の35個の穴から雨漏りが続く限り、家の中が濡れるのは止められない。

この洞察に基づき開発されたのが、ReCODE(Reversal of Cognitive Decline)プロトコルである。これは、包括的な血液検査や遺伝子検査によって、個々の患者にとっての「穴」がどこにあるのかを特定し、それらすべてに同時に、かつ持続的に対処することを目指す多因子介入プログラムである5。その介入項目は多岐にわたる。ケトン体産生を促す食事療法(マイルドなケトジェニックダイエット)、インスリン感受性を改善するための運動、質の高い睡眠の確保、ストレス管理、腸内環境の改善、そして個々の代謝プロファイルに応じて最適化されたビタミン、ミネラル、ハーブなどのサプリメント補充、必要に応じたホルモン補充療法など、ライフスタイルのあらゆる側面を網羅する。これはもはや「薬」を処方するというより、破綻した生体システムのネットワーク全体を再調整する「アルゴリズム」を適用するようなアプローチなのである。

Ⅳ|症例報告の光と影

ブレデセンのアプローチが世界に衝撃を与えたのは、その理論的枠組みだけでなく、実際に認知機能の改善を示したとされる症例報告の存在である。本書や関連する論文では、MCI(軽度認知障害)や初期アルツハイマー病と診断された患者がReCODEプロトコルを実践し、記憶力を取り戻し、仕事や日常生活に復帰したという、希望に満ちたケースが複数紹介されている6

しかし、科学界からは厳しい視線も向けられている。ブレデセンが提示するエビデンスの多くは、対照群を置かないケーススタディや小規模な観察研究であり、治療効果を科学的に証明する上でのゴールドスタンダードとされるランダム化比較試験(RCT)が行われていない7。UCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)の神経学者をはじめとする批判者たちは、報告されている改善がプロトコル自体の効果なのか、プラセボ効果や単なる生活習慣改善による非特異的な効果なのか区別できないと指摘する。また、ReCODEプロトコルは包括的な検査と多数のサプリメントを必要とするため、高額な自費診療となり、誰もがアクセスできるわけではないという問題もある。

ブレデセン自身もこの限界を認めており、現在、より厳密な臨床試験が進行中である。彼の主張は、確立された治療法というよりは、有望な「仮説」の段階にあると見るのが公平な立場であろう。希望の光と、科学的証明の影。その両方を見据える冷静な視点が求められる。

◉ 発展章|複雑系科学から見たアルツハイマー病

ブレデセンの36因子モデルは、アルツハイマー病研究を、単一原因・単一結果を求める線形的な思考から、多数の要素が非線形に相互作用する複雑系(Complex System)として捉え直すパラダイムシフトを促すものである。これは、特定の標的分子だけを狙う「魔法の弾丸」的創薬の限界が露呈する中で、疾患に関連するネットワーク全体に穏やかに働きかける「ネットワーク薬理学」という新しい潮流とも軌を一つにする8

この視点は、他の棚の書籍、例えばデビッド・シンクレアの『LIFESPAN』が提唱する「老化の情報理論」とも深く共鳴する。シンクレアは、老化をDNA損傷の蓄積ではなく、ゲノムを制御するエピジェネティックな情報の乱れと捉えた。アルツハイマー病もまた、この情報システムの破綻が脳という特定の組織で顕在化した一つの「表現型」と見なすことができるかもしれない。ブレデセンが指摘する炎症、代謝異常、毒素といった「穴」は、シンクレアの言うエピジェネティックなノイズを増大させ、サーチュインのような長寿遺伝子の防御能力を疲弊させる要因そのものである。両者のアプローチは、表面的な症状ではなく、システムの根本的な機能不全に介入するという点で共通している。アルツハイマー病は、単なる脳の病気ではなく、全身の老化プロセスと分かちがたく結びついた全身病なのだ。

結び

デール・ブレデセンが提示したReCODEプロトコルは、現時点では科学的に確立された治療法とは言えない。その有効性を巡る論争は、今後も続くだろう。しかし、彼の実践がもたらした最大の功績は、アルツハイマー病を「不治の病」として思考停止するのではなく、「対処可能な多因子疾患」として分析し、介入する具体的な道筋を示したことにある。

アミロイド仮説という巨大なパラダイムが揺らぎ、研究者たちが新たな説明モデルを模索している今、ブレデセンの挑戦は、アルツハイマー病研究における「終わりの始まり」を告げているのかもしれない。一つの答えがすべてを解決する時代は終わり、複雑な問題には、複雑で、個別化された解決策が必要である。本書が投げかけるこの根源的な問いに、私たちはどう向き合っていくべきなのだろうか。その答えは、まだ誰にも分かっていない。

参考文献

  1. 1.Musiek, E. S., & Holtzman, D. M. (2015). Three dimensions of the amyloid hypothesis: time, space and ‘wingmen’. Nature Neuroscience.
  2. 2.Morris, G. P., Clark, I. A., & Vissel, B. (2014). Inconsistencies and controversies surrounding the amyloid hypothesis of Alzheimer's disease. Acta Neuropathologica Communications.
  3. 3.Bredesen, D. E. (2017). The End of Alzheimer's: The First Program to Prevent and Reverse Cognitive Decline. Avery.
  4. 4.Bredesen, D. E. (2014). Reversal of cognitive decline: a novel therapeutic program. Aging.
  5. 5.Rao, R. V., et al. (2023). Rationale for a multi-factorial approach for the reversal of cognitive decline in Alzheimer’s disease and MCI: a review. International Journal of Molecular Sciences.
  6. 6.Bredesen, D. E., et al. (2018). Reversal of cognitive decline: 100 patients. Journal of Alzheimer's Disease & Parkinsonism.
  7. 7.Robbins, R. (2020). The Bredesen Protocol, a controversial program to reverse Alzheimer’s, explained. STAT News.
  8. 8.Duchesne, S., et al. (2024). A scoping review of Alzheimer’s Disease hypotheses: an array of Uni-and multi-factorial theories. Journal of Alzheimer's Disease.